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Jyoudo_ji 2018.6.24 参拝
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◆ 境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」がある。大正11年建立の仁王門を入って段を登ると寄棟造りの本堂がある、本尊は行基作の釈迦如来像。寺は天平年間に開創され、孝謙天皇の勅願所であった。後に弘法大師が巡錫され伽藍を再興し、寺内六十六防、末寺七ヶ所を有する大きな寺となったが、その後衰退、鎌倉時代には源頼朝が再興したものの応永22年(1416)の兵火で焼失し、文明14年(1482)に領主の河野通宣が再興したのが現在の本堂である。本堂西側の谷は空也谷と呼ばれる様に、この寺は空也上人と深い関りを持つ。空也上人はこの寺に3年間滞留して修行されたが、寺を去る時村民は名残惜しんで、お姿だけでも留めおきたいと熱望、上人は自像を刻んで寺に残した。その空也上人像は今も阿弥陀堂に安置され重文になっている。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 山門を境内より | 日本遺産「四国遍路」浄土寺 |
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本堂 | 大志堂 | 手水舎 | 鐘楼 | |
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修行大師 | 重文、本堂 | 三界万霊 | 阿弥陀堂 | 納経所 |
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俳句ポスト | 正岡子規・森白象句碑 | 遍照殿 | 災厄除 | 菩薩像 |
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Hanta_ji 2018.6.24 参拝
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◆ 繁多寺は別名畑寺とも呼ばれている。山門の前に立つと道後平野を一望に見下ろすことができ勝山に建つ松山城や、松山港から太山寺付近まで遠望できる。縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。本尊は行基菩薩の作で薬師如来。孝謙天皇の勅願所であった。その後伊予入道頼義や堯運老師によって再興され、光明寺と号したが、弘法大師が長く留まって東山繁多寺と改称した。
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山門 | 繁多寺案内 | 日本遺産「四国遍路」繁多寺 | 山門(境内より) | 境内 |
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本堂 | 大志堂 | 手水舎 | 鐘楼 | 歓喜天 |
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毘沙門天 | 法界塔 | 修行大師 | 広い境内 | 納経所 |
Ishite_ji 2018.6.24 参拝
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◆ 道後湯築城主の河野息利の妻が男の子を生んだ。ところがその子は三年経っても左手が開かない。そこで安養寺の住職が祈祷したところやっと手を開き、その手から「衛門三郎再来」の小石が転げ落ちた。その子は息方と名付けられ、15歳で家督を継いだが、この子こそ天長8年10月、十二番焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれ変わりなのである。やがて安養寺を石手寺と改め、この石は寺に納められた。縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724?49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、前述の寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
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境内、中央が石段上が本堂 |
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門境内から | 石手寺石柱 |
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本堂 | 太子堂 | 山門 | 参道 | 山門前の小川 |
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手水場 | 石手寺案内 | 衛門三郎石柱 | 衛門三郎 |
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境内、中央が仁王門 |
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護摩堂 | 鐘楼 | 鐘楼堂 | 三重塔 | |
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知恵の輪 | 知恵の輪 | 衛門三郎再生の石 | 納経所 | 道路脇の石仏 |
Taisan_ji 2018.6.25 参拝
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◆ 駐車場から山門を抜けると杉の大樹が並ぶ坂道の参道で途中右手に本坊、さらにもう少し行き石段を登ると仁王門がある。本堂は仁王門と同じく鎌倉時代の建立で入母屋造り。愛媛県下でも最大級の木造建築で国宝になっている。開創は寺伝によれば、用明2年(587)豊後の国の真野長者が商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。その後、弘法大師が訪れたて寺を整備、法相宗だったのを真言宗に改めた。
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山門 | 仁王門 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 |
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太山寺案内 | 太山寺文化財説明 | 日本遺産「四国遍路」太山寺 | 参道 | 手水舎 |
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本堂 | 大志堂 | 大日如来 | 修行大師 | 仏足石 |
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子育地蔵 | 本坊・納経所 | 山門 |
Enmyou_ji 2018.6.24 参拝
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◆ 大正十年三月、四国八十八ヶ所にあこがれて巡拝したアメリカのスタール博士は円明寺本尊厨子に打ち付けてあった銅板の納札を評価して、これを紀行文で発表した。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。この寺にはもう一つ境内に珍しい切支丹灯篭がある。十字の形に聖母マリアと思われる像が浮き彫りされている。キリシタンの信仰は秀吉が禁止して以来各地で弾圧されたが、隠れて信仰を続ける者も多かった。四国の隠れキリシタンが秘かに礼拝したものだろう。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 日本遺産「四国遍路」円明寺 | 円明寺石柱 |
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本堂 | 大志堂 | 鐘楼門 | 切支丹灯篭 | 手水舎 |
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観音堂 | 不動明王 | 修行大師 | 子育・水子地蔵 | 仏足跡 |
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納経所 | 庫裡 |
Enmei_ji 2017. 5.30 参拝
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◆ 今治から西北へ6キロほど行ったところに近見山(244m)がある。芸予諸島や来島海峡を全景を展望する絶好の地である。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。寺の創建は行基菩薩が近見山上に一宇を建立したのに始まり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が再興し近見山宝鏡院円明寺と号したが、五十三番も円明寺であり、札所二か所続いて円明寺では具合が悪いので、明治になって江戸時代からの俗称であった「延命寺」と改称した。その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。今の堂塔は大正から昭和にかけて再建したもの。山門横に鐘楼があり、宝永元年鋳造の小さい鐘だが、よく響くので松山城にお召し上げになり人夫が鐘を下していると、絶え間なく「いゃ〜んいゃ〜ん」と泣くので、人夫は恐れて放置して帰ってしまった。それを後年吊るしたが、当山の院号”宝鐘院”は、その梵鐘に由来すると言われる。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門(裏から) | 日本遺産「四国遍路」延命寺 |
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今治城から移築の山門 | 山門説明 | 大志堂への石段 | 本堂 | 大志堂 |
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焼香所 | 薬師堂 | 鐘楼(寺の院号の由来となった梵鐘) | 有形文化財梵鐘 | 梵鐘説明(近見二郎) |
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手水舎 | 弘法大師尊像 | 閻魔大王 | 越智孫兵衛墓 | 納経所 |
Nankoubou 2017. 5.21 参拝
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◆ JR今治駅のすぐ近く、今治市の中心街に南光坊がある。今治の沖に大三島があり、ここに大山積(おおやまつみ)神を祀る大山祇神社がある。その創建は古く、航海の神と崇められ、西海の代表的な神社であった。大宝3年(703)伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697〜707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定めた。のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
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仁王門 | 多聞天 | 持国天 | 増長天 | 広目天 |
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南光坊石碑 | 日本遺産「四国遍路」南光坊 | 本堂 | 大志堂 | 手水舎 |
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薬師堂 | 金毘羅堂 | 修行大師像 | 大日如来像 | 納経所 |
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庫裡 | 大山祇神社 | 大山祇神社由緒 | 大山祇神社本殿 |
Taisan_ji 2017. 5.21 参拝
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◆ 弘仁6年、弘法大師が41歳の時、この地を訪れた。梅雨のため蒼社川が氾濫して、田畑は一面水没してしまった。毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊の仕業と信じていた。これを聞いた大師は農民と図り堤防を築いて「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。後の天長元年(824)、寺は淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備し、十坊を有する大寺となった。しかし度々の兵火により規模は縮小、金輪山の山の上から麓の現在地へ移築された。”忘れずの松”は大志堂の前にあり、この松に手を触れて、その手で腰をさすると腰の病にかからないという。
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泰山寺参道石段 | 本堂 | 大志堂 | ||
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鐘楼 | 不老松 | 地蔵車 | 左から千手、馬頭 如意輪観音 救世観世音菩薩像 | 納経所 |
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本坊・庫裡 | 修行大師像 | 聖宝理源大志 |
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」