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伊予の霊場(菩提の道場)其の弐 49番〜56番

49番札所浄土寺 Jyoudo_ji   2018.6.24 参拝

49番浄土寺

寺名称西林山 三蔵院 浄土寺(さいりんざん さんぞういん じょうどじ)
住所愛媛県松山市鷹子町1198
開基・創建 恵明上人・天平勝宝年間(749〜757)
宗派真言宗 豊山派
御本尊釈迦如来(伝行基菩薩作)
本尊真言のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌十悪のわが身を棄てずそのままに 浄土の寺へまいりこそすれ
御朱印

◆ 境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」がある。大正11年建立の仁王門を入って段を登ると寄棟造りの本堂がある、本尊は行基作の釈迦如来像。寺は天平年間に開創され、孝謙天皇の勅願所であった。後に弘法大師が巡錫され伽藍を再興し、寺内六十六防、末寺七ヶ所を有する大きな寺となったが、その後衰退、鎌倉時代には源頼朝が再興したものの応永22年(1416)の兵火で焼失し、文明14年(1482)に領主の河野通宣が再興したのが現在の本堂である。本堂西側の谷は空也谷と呼ばれる様に、この寺は空也上人と深い関りを持つ。空也上人はこの寺に3年間滞留して修行されたが、寺を去る時村民は名残惜しんで、お姿だけでも留めおきたいと熱望、上人は自像を刻んで寺に残した。その空也上人像は今も阿弥陀堂に安置され重文になっている。

49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛山門を境内より日本遺産「四国遍路」浄土寺
49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺
本堂大志堂手水舎鐘楼
49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺
修行大師重文、本堂三界万霊阿弥陀堂納経所
49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺
俳句ポスト正岡子規・森白象句碑遍照殿災厄除菩薩像
49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺 49番浄土寺

50番札所繁多寺 Hanta_ji   2018.6.24 参拝

50番繁多寺

寺名称東山 瑠璃光院 繁多寺(ひがしやま るりこういん はんたじ)
住所愛媛県松山市畑寺町32
開基・創建行基菩薩・天平勝宝年間(749〜757)
宗派真言宗 豊山派
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌よろずこそ繁多なりとも怠らず  諸病なかれと望み祈れよ
御朱印

◆ 繁多寺は別名畑寺とも呼ばれている。山門の前に立つと道後平野を一望に見下ろすことができ勝山に建つ松山城や、松山港から太山寺付近まで遠望できる。縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。本尊は行基菩薩の作で薬師如来。孝謙天皇の勅願所であった。その後伊予入道頼義や堯運老師によって再興され、光明寺と号したが、弘法大師が長く留まって東山繁多寺と改称した。

50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺
山門繁多寺案内日本遺産「四国遍路」繁多寺山門(境内より)境内
50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺
本堂大志堂手水舎鐘楼歓喜天
50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺 50番繁多寺
毘沙門天法界塔修行大師広い境内納経所

51番札所石手寺 Ishite_ji    2018.6.24 参拝

51番石手寺

寺名称熊野山 虚空蔵院 石手寺(くまのざん こくぞういん いしてじ)
住所愛媛県松山市石手二丁目9番21号
開基・創建行基菩薩・天平元年(729)
宗派真言宗 豊山派
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌西方をよそとは見まじ安養の 寺に詣りて受くる十楽
御朱印

◆ 道後湯築城主の河野息利の妻が男の子を生んだ。ところがその子は三年経っても左手が開かない。そこで安養寺の住職が祈祷したところやっと手を開き、その手から「衛門三郎再来」の小石が転げ落ちた。その子は息方と名付けられ、15歳で家督を継いだが、この子こそ天長8年10月、十二番焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれ変わりなのである。やがて安養寺を石手寺と改め、この石は寺に納められた。縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724?49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、前述の寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。

51番石手寺
境内、中央が石段上が本堂
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛仁王門境内から石手寺石柱
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
本堂太子堂山門参道山門前の小川
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
手水場石手寺案内衛門三郎石柱衛門三郎
51番石手寺
境内、中央が仁王門
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
護摩堂 鐘楼鐘楼堂三重塔
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺 51番石手寺
知恵の輪知恵の輪衛門三郎再生の石納経所道路脇の石仏

52番札所太山寺 Taisan_ji    2018.6.25 参拝

52番太山寺

寺名称龍雲山 護持院 太山寺 (りゅううんざん ごじいん たいさんじ)
住所愛媛県松山市太山寺町1730
開基・創建 真野長者・六世紀後半
宗派真言宗 智山派
御本尊十一面観世音菩薩
本尊真言おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へば何の苦もなし
御朱印

◆ 駐車場から山門を抜けると杉の大樹が並ぶ坂道の参道で途中右手に本坊、さらにもう少し行き石段を登ると仁王門がある。本堂は仁王門と同じく鎌倉時代の建立で入母屋造り。愛媛県下でも最大級の木造建築で国宝になっている。開創は寺伝によれば、用明2年(587)豊後の国の真野長者が商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。その後、弘法大師が訪れたて寺を整備、法相宗だったのを真言宗に改めた。

52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺
山門仁王門仁王門密迹金剛那羅延金剛
52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺
太山寺案内太山寺文化財説明日本遺産「四国遍路」太山寺参道手水舎
52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺
本堂大志堂大日如来修行大師仏足石
52番太山寺 52番太山寺 52番太山寺
子育地蔵本坊・納経所山門

53番札所円明寺 Enmyou_ji    2018.6.24 参拝

53番円明寺

寺名称須賀山 正智院 円明寺(すがざん しょうちいん えんみょうじ)
住所愛媛県松山市和気町1-182
開基・創建 行基菩薩・天平勝宝元年(749)
宗派真言宗 智山派
御本尊阿弥陀如来(伝行基菩薩作)
本尊真言おん あみりた ていせい からうん
ご詠歌来迎の弥陀の光の圓明寺 照りそふ影は夜な夜なの月
御朱印

◆ 大正十年三月、四国八十八ヶ所にあこがれて巡拝したアメリカのスタール博士は円明寺本尊厨子に打ち付けてあった銅板の納札を評価して、これを紀行文で発表した。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。この寺にはもう一つ境内に珍しい切支丹灯篭がある。十字の形に聖母マリアと思われる像が浮き彫りされている。キリシタンの信仰は秀吉が禁止して以来各地で弾圧されたが、隠れて信仰を続ける者も多かった。四国の隠れキリシタンが秘かに礼拝したものだろう。

53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛日本遺産「四国遍路」円明寺円明寺石柱
53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺
本堂大志堂鐘楼門切支丹灯篭手水舎
53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺 53番円明寺
観音堂不動明王修行大師子育・水子地蔵仏足跡
53番円明寺 53番円明寺
納経所庫裡

54番札所延命寺 Enmei_ji    2017. 5.30 参拝

54番札所延命寺

寺名称近見山 宝鐘院 延命寺(ちかみざん ほうしょういん えんめいじ)
住所愛媛県今治市阿方甲636
開基・創建 行基菩薩・養老4年(720)
宗派真言宗 豊山派
御本尊不動明王(伝行基菩薩作)
本尊真言のうまく さんまんだ ばざらだんせんだ まかろしゃだ そわたや
うん たらた かんまん
ご詠歌くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな
御朱印

◆ 今治から西北へ6キロほど行ったところに近見山(244m)がある。芸予諸島や来島海峡を全景を展望する絶好の地である。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。寺の創建は行基菩薩が近見山上に一宇を建立したのに始まり、後に嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が再興し近見山宝鏡院円明寺と号したが、五十三番も円明寺であり、札所二か所続いて円明寺では具合が悪いので、明治になって江戸時代からの俗称であった「延命寺」と改称した。その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。今の堂塔は大正から昭和にかけて再建したもの。山門横に鐘楼があり、宝永元年鋳造の小さい鐘だが、よく響くので松山城にお召し上げになり人夫が鐘を下していると、絶え間なく「いゃ〜んいゃ〜ん」と泣くので、人夫は恐れて放置して帰ってしまった。それを後年吊るしたが、当山の院号”宝鐘院”は、その梵鐘に由来すると言われる。

54番延命寺 54番延命寺 54番延命寺 54番延命寺 54番延命寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛仁王門(裏から)日本遺産「四国遍路」延命寺
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今治城から移築の山門山門説明大志堂への石段本堂大志堂
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焼香所薬師堂鐘楼(寺の院号の由来となった梵鐘)有形文化財梵鐘梵鐘説明(近見二郎)
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手水舎弘法大師尊像閻魔大王越智孫兵衛墓納経所

55番南光坊 Nankoubou    2017. 5.21 参拝

55番南光坊

寺名称別宮山 金剛院 南光坊(べっくざん こんごういん なんこうぼう)
住所愛媛県今治市別宮町3丁目1番地
開基・創建 行基菩薩・大宝3年(703)
宗派真言宗 御室派
御本尊大通智勝如来
本尊真言なむ だいつうちしょう ぶつ
ご詠歌このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂迹
御朱印

◆ JR今治駅のすぐ近く、今治市の中心街に南光坊がある。今治の沖に大三島があり、ここに大山積(おおやまつみ)神を祀る大山祇神社がある。その創建は古く、航海の神と崇められ、西海の代表的な神社であった。大宝3年(703)伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697〜707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定めた。のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。

55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊
仁王門多聞天持国天増長天広目天
55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊
南光坊石碑日本遺産「四国遍路」南光坊本堂大志堂手水舎
55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊
薬師堂金毘羅堂修行大師像大日如来像納経所
55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊 55番南光坊
庫裡大山祇神社大山祇神社由緒大山祇神社本殿

56番泰山寺 Taisan_ji    2017. 5.21 参拝

56番泰山寺

寺名称金輪山 勅王院 泰山寺(きんりんざんちょくおういんたいさんじ)
住所愛媛県今治市小泉1-9-18
開基・創建 弘法大師・弘仁6年(815)
宗派真言宗 醍醐派
御本尊地蔵菩薩(伝弘法大師作)
本尊真言おん かかかび さんまえい そわか
ご詠歌みな人の詣りてやがて泰山寺 来世の引導たのみおきつつ
御朱印

◆ 弘仁6年、弘法大師が41歳の時、この地を訪れた。梅雨のため蒼社川が氾濫して、田畑は一面水没してしまった。毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊の仕業と信じていた。これを聞いた大師は農民と図り堤防を築いて「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。後の天長元年(824)、寺は淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備し、十坊を有する大寺となった。しかし度々の兵火により規模は縮小、金輪山の山の上から麓の現在地へ移築された。”忘れずの松”は大志堂の前にあり、この松に手を触れて、その手で腰をさすると腰の病にかからないという。

56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺
泰山寺参道石段本堂大志堂
56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺
鐘楼不老松地蔵車左から千手、馬頭
如意輪観音
救世観世音菩薩像
納経所
56番泰山寺 56番泰山寺 56番泰山寺
本坊・庫裡修行大師像聖宝理源大志