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伊予の霊場(菩提の道場)其の参 57番〜65番

五十七番札所栄福寺 Eifuku_ji   2017. 5.21 参拝

57番栄福寺

寺名称府頭山 無量寿院 栄福寺(ふとうざんむりょうじゅいんえいふくじ)
住所愛媛県今治市玉川町八幡甲200
開基・創建弘法大師・弘仁年間(810〜824)
宗派高野山 真言宗
御本尊阿弥陀如来
本尊真言おん あみりた ていせいから うん
ご詠歌この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏
御朱印

◆ 栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。土地の人はこの寺を「八幡さん」と呼んでいる。元はこの山の勝岡八幡宮と一体だったが、明治の神仏分離で分かれ、栄福寺は八万大菩薩の本地仏阿弥陀如来を本尊として独立した。嵯峨天皇(在位809?23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。

栄福寺本堂大志堂鐘楼手水舎
修行大師像仏足跡納経所

五十八番札所仙遊寺 Senyu_ji   2017. 5.21 参拝

58番仙遊寺

寺名称作礼山 千光院 仙遊寺(されいざん せんこういん せんゆうじ)
住所愛媛県今治市玉川町別所甲483
開基・創建越智守興・七世紀後半
宗派高野山 真言宗
御本尊千手観世音菩薩
本尊真言おん ばざらたらま きりく
ご詠歌たちよりて作礼の堂にやすみつつ 六字を唱え経を読むべし
御朱印

◆ 寺は"おされさん"の名で知られる標高340mの作礼山の山頂にある。創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。寺は天智天皇の勅を奉じて国守越智守興公が堂宇を建立したことに始まり、ご本尊の千手観世音は龍女が一刀三礼して彫ったと伝えられ、天智天皇の守護仏であった。のち弘法大師が来たとき寺は荒廃していたが、大師が再興してから寺運は盛んになり、人々の信仰を集めた。

58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛仙遊寺石碑ここから参道登山道
58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺
山門裏参道弘法大師御加持水由来弘法大師御加持水境内から見る参道降口
58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺
本堂大志堂手水舎鐘楼仏足跡
58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺 58番仙遊寺
子安観音遊戯観音修行大師像御砂踏霊場

五十九番札所国分寺 Kokubun_ji   2017. 5.21 参拝

59番国分寺

寺名称金光山 最勝院 国分寺(きんこうざんさいしょういんこくぶんじ)
住所愛媛県今治市国分4-1-33
開基・創建行基菩薩・天平13年(741)
宗派真言律宗
御本尊薬師瑠璃光如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌守護のため建ててあがむる国分寺  いよいよめぐむ薬師なりけり
御朱印

◆ 国分寺は伊予の護国寺として聖武天皇の勅命により、天平13年(741)行基菩薩が開創。寺域八丁四方といわれ諸国の国分寺の中でも最も大きな寺であった。第三世住職、智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して五大尊の画像一幅を残し、大師の弟子真如も二年滞留し、法華経の一部を書写した。その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。四十三世恵光上人が寛政元年(1789)金堂を建立したが、これが現在の本堂である。

59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺
参道入口准別格本山「国分寺」日本遺産「四国遍路」
国分寺
本堂大志堂
59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺
手水舎焼香所鐘楼握手修行大師薬師のつぼ
59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺 59番国分寺
脇屋儀助慰霊碑納経所本坊薬師如来石像

六十番札所横峰寺 Yokomine_ji    2018.10.8 参拝

60番横峰寺

寺名称石鉄山 福智院 横峰寺(いしづちさんふくちいんよこみねじ)
住所愛媛県西条市小松町石鎚甲2253
開基・創建役行者小角・白雉2年(651)
宗派真言宗御室派
御本尊大日如来(伝弘法大師作)
本尊真言おん あびらうんけん ばざらだとばん
ご詠歌たて横に峰や山辺に寺たてて  あまねく人を救ふものかな
御朱印

◆ 阿波の太龍寺とともに横峰寺は車を利用しても急傾斜の山道を登らなければならない。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。横峰寺は白雉2年修験の開祖、役小角がこの山の上、星ヶ森で修行中、石鎚山上に蔵王権現が現れたのでその尊像を刻んで開創、のち弘法大師が巡?され星ヶ森で石鎚山に向かって祈念していると山上に蔵王権現を見られ、ここは霊山だとして大日如来を刻まれ、星供を修法されたので星ヶ森と呼ばれる様になった。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。明治の廃仏毀釈でお社に転向、石鎚神社遥拝所横峯社として存続していたが明治四十三年になって再び横峰寺として返り咲き、従って本堂も他ではあまり例をみない権現造りである。

60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺
山門日本遺産「四国遍路」
横峰寺
駐車場からの参道案内参道参道
60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺
本堂大志堂手水場鐘楼星月堂
60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺
石鉄山横峰寺案内聖天堂客殿及納経所庫裡庫裡裏庭園
60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺 60番横峰寺
参道途中の
稲荷大明神への参道
駐車場で女房の手に
小鳥が・・・

石鎚神社

石鎚神社
石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社
神門小天狗大天狗石鎚神社案内石鎚神社案内
石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社
社務所本宮祖霊殿御神水汲み場滝行の場
石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社 石鎚神社
旧頂上祠弘法大師像石鎚神社御朱印
石鎚神社

六十一番札所香園寺 Kouon_ji    2017. 5. 1 参拝

61番香園寺

パノラマ合成していますので、屋根が丸くなってますが、実際は直線です。

寺名称栴檀山 教王院 香園寺(せんだんさんきょうおういんこうおんじ)
住所愛媛県西条市小松町南川甲19
開基・創建 聖徳太子・六世紀後半
宗派真言宗 御室派
御本尊大日如来
本尊真言 おん あびらうんけん ばざらだどばん
ご詠歌後の世を思えば詣れ香園寺  止とめて止まらぬ白滝の水
御朱印

◆ 香園寺は小松町のはずれにあり、一万坪の境内には、これがお寺?と見まがうばかりでまるで何処かの役所か体育館みたいな鉄筋の建物で、中には本堂や大師堂が入っている。縁起によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このとき太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。ある時この門前で身重な女が苦しんでいて、そこを通りかかった大師は、身軽になるよう秘法の加持をされた。すると女は玉のような男子を出産した、これに因んで大師は唐から持ち帰った大日如来の像をご本尊の胸に収め、栴檀の香をたいて十七日の護摩修法をされた。これに因んで栴檀山香園寺と号されるようになった。以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚や、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。

61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺
東約200mにある
香園寺標柱
宝寿寺案内香園寺手水場本堂・大師堂
61番香園寺
2階本堂内、右が大志堂
61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺
2階本堂入口本堂子安大師堂鐘楼納経所
61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺 61番香園寺
日本遺産「四国遍路」香園寺坂村真民さんの句第2駐車場にある
宝寿寺納経所

六十二番札所宝寿寺 Houjyu_ji    2017. 5. 1 参拝

62番宝寿寺

寺名称天養山 観音院 宝寿寺(てんようざんかんのんいんほうじゅじ)
住所愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
開基・創建 聖武天皇・天平年間(729〜749)
宗派高野山 真言宗
御本尊十一面観世音菩薩
本尊真言おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ
御朱印

◆ JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。当寺は聖武天皇の勅願により、伊予一宮の法楽所として中山川川の白坪に建立したが、洪水のため堂宇が破損したので、天養年間に修復し、山号は天養山となった。後天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻略戦に寺は荒廃したので、寛永年間に藩主一柳直頼が敷地を現在地の小松に移建し、四国遍路の行者宥伝上人が再興した。縁起によれば、聖武天皇はこの寺を創建した後、金光明最勝王経を奉納し、僧道慈を任じて購読させたという。その後弘法大師が寺に長く留まったが、聖武天皇のお妃、光明皇后の姿をうつした十一面観世音を刻まれて本尊とし、寺号を宝寿寺とした。その頃国司越智公の夫人が難産を心配して大師に祈念を乞われた。大師は境内の玉の井の水を夫人に与えた。そのため若君を安産し玉澄と命名されたが、夫人は”さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かな”と詠まれて寺へ献納された。この歌が寺のご詠歌として残っており、当寺は”安産観世音”として名高い。

62番宝寿寺 62番宝寿寺 62番宝寿寺 62番宝寿寺 62番宝寿寺
山門本堂大志堂手水舎納経所
62番宝寿寺
香園寺駐車場にある
宝寿寺納経所

六十三番札所吉祥寺 Kichijyou_ji    2017.05.01 参拝

63番吉祥寺

寺名称密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうさんたいぞういんきちじょうじ)
住所愛媛県西条市氷見乙1048
開基・創建弘法大師・弘仁年間(810〜824)
宗派真言宗 東寺派
御本尊毘沙聞天
本尊真言おん べいしらまんだや そわか
ご詠歌身の中の悪しき悲報を打ちすてて みな吉祥を望み祈れよ
御朱印

◆ 当寺の本尊は毘沙門天。四国八十八ヶ所のうち、毘沙門天を本尊としているところはこの寺だけである。弘法大師がこの寺に巡ヨウの際、東南の山中に光を放っている檜を発見、人々の貧苦をなくさんと祈念して、これで毘沙門天を刻み吉祥天と善膩師童子を脇士として本尊とした。堂宇はその後、天正13年(1585)の長宗我部と小早川隆景の合戦で兵火にかかり全山焼失したが、万治2年(1659)末寺の桧木寺と合併して現在の地に再建された。寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。また鐘楼の脇には真ん中に丸く穴の開いた”成就石”という大きな石が置かれている。本堂より目をつぶりこの石に進み、石の穴に金剛杖を突き出して杖の先が穴を通れば、願い事が叶えられるそう。

63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺
山門境内から見る山門本堂大志堂手水舎
63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺
鐘楼成就石お迎え大師くぐり吉祥天女福聚閣
63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺 63番吉祥寺
納経所天満大神四国遺産「吉祥寺」

63番前神寺 Maegami_ji    2017.05.21 参拝

63番前神寺

寺名称石鉄山 金色院 前神寺(いしづちさんこんじきいんまえがみじ)
住所愛媛県西条市洲之内甲1426
開基・創建役行者小角・七世紀後半
宗派真言宗石派(総本山)
御本尊阿弥陀如来(伝役行者作)
本尊真言おん あみりた ていせい からうん
ご詠歌前は神後は仏極楽の よろずの罪をくだくいしづち
御朱印

◆ 前神寺の西にある石鎚山(1981m)は、古くから富士、大山等と並ぶ日本七霊山の一つ。七〜八世紀の頃、役小角(えんのおずぬ)によって開かれたと伝えられている。小角が山頂で苦行修練していた時、蔵王権現を感得したので、尊像を刻んで修験道の大本山とした。その後上仙道人が山頂への道を開き桓武天皇が病気の時「南海に霊峰あり、、石鉄蔵王大権現鎮座のところ霊験あらたかなり」と聞かれ、早速勅使を石鉄山に遣わして祈願されたところ病が治った。天皇は石鎚山の麓に七堂伽藍を建立して金色院前神寺とした。弘法大師もこの山に登って求聞持法を修し、霊場に定めた。前神寺は石鉄山の別当寺だったが、明治の神仏分離で寺は現在地に移り祭礼は石鎚神社が行うようになった。慶長年間に建てられた成就(1500m)には前神寺の出張所があり、ここを奥前神寺といい、麓の本寺を里前神寺といっている。信徒は、現在300,000人を超すといわれ、毎年7月1日からの「お山開き」には数万人にのぼる白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和している。

63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺
山門本堂への石段本堂薬師堂護摩堂
63番前神寺
本堂境内パノラマ
63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺
大志堂手水場鐘楼善識上人・善尭上人像滝に打たれる不動明王
63番前神寺
駐車場から、左が大志堂、右鐘楼
63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺 63番前神寺
金毘羅大権現本堂境内から下り石段御詠歌石鉄権現堂南西にある石鎚神社

65番三角寺 Sankaku_ji    2017. 5. 1 参拝

65番三角寺

寺名称由霊山 慈尊院 三角寺(ゆれいざんじそんいんさんかくじ)
住所愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75
開基・創建行基菩薩・天平年間(729〜749)
宗派高野山 真言宗
御本尊十一面観世音菩薩(伝弘法大師作)
本尊真言おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌おそろしや三つの角にもいるならば 心をまろく慈悲を念ぜよ
御朱印

◆ 三角寺は標高430mの平石山の中腹にある寺である。俳人一茶も寛政7年(1795)にここを訪れた時、「これでこそ 登りかひあり 山桜」の句を残したと伝えられている。山門は鐘楼になっていて巡拝者は門を入る時一人一人鐘をついて境内に入る。本堂は門を入った左にあり、弘法大師が刻んだとされる十一面観世音菩薩が安置されている。寺は聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基。嵯峨天皇はご本尊を深く信仰し寺領三百町歩を下賜するとともに堂塔を造営させたが、これは天正九年の兵火で焼失、現在の堂塔は寛永二年(1849)のものが大半だそうである。本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰されている。ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。

65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺
駐車場からの石段仁王門(鐘楼門)密迹金剛那羅延金剛境内からの仁王門
65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺
山門内の梵鐘三角寺縁起本堂大志堂薬師堂
65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺
鐘楼手水舎三界萬霊三角池三角池中島の大辨天
65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺 65番三角寺
善堯上人・善識上人像納経所本坊日本遺産「四国遍路」三角寺