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Eifuku_ji 2017. 5.21 参拝
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◆ 栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。土地の人はこの寺を「八幡さん」と呼んでいる。元はこの山の勝岡八幡宮と一体だったが、明治の神仏分離で分かれ、栄福寺は八万大菩薩の本地仏阿弥陀如来を本尊として独立した。嵯峨天皇(在位809?23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。
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栄福寺 | 本堂 | 大志堂 | 鐘楼 | 手水舎 |
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修行大師像 | 仏足跡 | 納経所 |
Senyu_ji 2017. 5.21 参拝
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◆ 寺は"おされさん"の名で知られる標高340mの作礼山の山頂にある。創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。寺は天智天皇の勅を奉じて国守越智守興公が堂宇を建立したことに始まり、ご本尊の千手観世音は龍女が一刀三礼して彫ったと伝えられ、天智天皇の守護仏であった。のち弘法大師が来たとき寺は荒廃していたが、大師が再興してから寺運は盛んになり、人々の信仰を集めた。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仙遊寺石碑 | ここから参道登山道 |
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山門裏 | 参道 | 弘法大師御加持水由来 | 弘法大師御加持水 | 境内から見る参道降口 |
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本堂 | 大志堂 | 手水舎 | 鐘楼 | 仏足跡 |
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子安観音 | 遊戯観音 | 修行大師像 | 御砂踏霊場 |
Kokubun_ji 2017. 5.21 参拝
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◆ 国分寺は伊予の護国寺として聖武天皇の勅命により、天平13年(741)行基菩薩が開創。寺域八丁四方といわれ諸国の国分寺の中でも最も大きな寺であった。第三世住職、智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して五大尊の画像一幅を残し、大師の弟子真如も二年滞留し、法華経の一部を書写した。その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。四十三世恵光上人が寛政元年(1789)金堂を建立したが、これが現在の本堂である。
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参道入口 | 准別格本山「国分寺」 | 日本遺産「四国遍路」 国分寺 | 本堂 | 大志堂 |
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手水舎 | 焼香所 | 鐘楼 | 握手修行大師 | 薬師のつぼ |
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脇屋儀助慰霊碑 | 納経所 | 本坊 | 薬師如来石像 |
Yokomine_ji 2018.10.8 参拝
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◆ 阿波の太龍寺とともに横峰寺は車を利用しても急傾斜の山道を登らなければならない。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。横峰寺は白雉2年修験の開祖、役小角がこの山の上、星ヶ森で修行中、石鎚山上に蔵王権現が現れたのでその尊像を刻んで開創、のち弘法大師が巡?され星ヶ森で石鎚山に向かって祈念していると山上に蔵王権現を見られ、ここは霊山だとして大日如来を刻まれ、星供を修法されたので星ヶ森と呼ばれる様になった。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。明治の廃仏毀釈でお社に転向、石鎚神社遥拝所横峯社として存続していたが明治四十三年になって再び横峰寺として返り咲き、従って本堂も他ではあまり例をみない権現造りである。
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山門 | 日本遺産「四国遍路」 横峰寺 | 駐車場からの参道案内 | 参道 | 参道 |
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本堂 | 大志堂 | 手水場 | 鐘楼 | 星月堂 |
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石鉄山横峰寺案内 | 聖天堂 | 客殿及納経所 | 庫裡 | 庫裡裏庭園 |
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参道途中の 稲荷大明神への参道 | 駐車場で女房の手に 小鳥が・・・ |
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神門 | 小天狗 | 大天狗 | 石鎚神社案内 | 石鎚神社案内 |
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社務所 | 本宮 | 祖霊殿 | 御神水汲み場 | 滝行の場 |
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旧頂上祠 | 弘法大師像 | 石鎚神社御朱印 |
Kouon_ji 2017. 5. 1 参拝
パノラマ合成していますので、屋根が丸くなってますが、実際は直線です。
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◆ 香園寺は小松町のはずれにあり、一万坪の境内には、これがお寺?と見まがうばかりでまるで何処かの役所か体育館みたいな鉄筋の建物で、中には本堂や大師堂が入っている。縁起によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このとき太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。ある時この門前で身重な女が苦しんでいて、そこを通りかかった大師は、身軽になるよう秘法の加持をされた。すると女は玉のような男子を出産した、これに因んで大師は唐から持ち帰った大日如来の像をご本尊の胸に収め、栴檀の香をたいて十七日の護摩修法をされた。これに因んで栴檀山香園寺と号されるようになった。以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚や、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。