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Unpen_ji 2017. 5. 1 参拝
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◆ 現在の行政区画からいうとこの寺は徳島県であるが、遍路の道順としては讃岐の霊場打ち初めとなる。登るにはロープウェイか、車では池田、佐馬地又は白地から約四十分で山頂に着くことができる。四国霊場中、最高峰で海抜約千メートル、四国高野と称している。仁王門から石段を上がると右に鐘楼堂がある。鐘は除夜の鐘として全国に放送されたことがある。正面に大師十六歳修行の地として大師堂、左に参道を下ると右に本堂、護摩堂、方丈、納経所、、通夜堂と並び境内は樹齢数百年の老杉が並び霊観を誘っている。大同二年(807)に嵯峨天皇の勅を奉じ仏舎利と毘盧遮那法印を石中に収めて六十六番の霊場とした。当山は鎌倉時代には全盛をきわめ、阿波坊、土佐坊、伊予坊、讃岐坊の四坊があり、勤学院を建立して四国、中国地方から学僧が雲のごとく集まったという。天正の頃、土佐の長宗我部元親が四国制圧をめざし、当山に登って来た。四十八代住職の俊崇坊は「あなたの器量は土佐一国の主だ。四国を平定しようとするのは茶釜の蓋で鍋の蓋をするようなもの早く兵を引いて土佐に帰り、領民を愛すのが、あなたのためだ」と説法をした。 元親は家臣の谷忠兵衛に相談すると谷氏は「坊主のくせに生意気な、戦いのことなど知るものか」と讃岐に攻め入った。その後、蜂須賀家の祈願所となっている。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | ||
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雲辺寺石碑 | 山門から大志堂 への石段 | 大志堂境内から山門を | マニ車 | 雲辺寺の観音様 |
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大志堂 | 旧大志堂 | 焼香所 | 鐘楼 | 本堂への緩い石段 |
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本堂 | 本堂 | 水堂(手水舎) | 護摩堂 | 庫裡 |
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本坊 | おたのみなす | おたのみなす絵馬 | 子安地蔵 | サヌカイト |
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毘沙門天展望館 | 毘沙門天展望館 | 五百羅漢 | 五百羅漢 | 五百羅漢 |
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五社大権現 | 駐車場からの参道 | 仏法石 | 夫婦杉 |
Daikou_ji 2017. 4. 4 参拝
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◆ 土地では大興寺というより、山号である「小松尾寺」と呼ぶのが通り名である。寺は弘仁十三年(822)嵯峨天皇の勅命で弘法大師が熊野三所権現鎮護の霊場として開創し、本尊の薬師如来を安置したことに始まる。後に真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あって、本堂の左右に真言、天台の大志堂があった。その後、長宗我部の兵火に遭い本堂を残して他の堂宇は焼失した。現在の堂宇は慶長年間に再建され一重寄棟造りの本堂を真ん中に左に大志堂、右に天台大志堂がある。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。文化財として指定されているのは次の4件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。仁王門にある雄渾な2の金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。
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仁王門 | 密迹金剛(運慶作) | 那羅延金剛(運慶作) | 仁王門(境内から) | 本堂 |
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本堂屋根の鴟尾 | 大志堂 | 天台大志堂 | 手水舎 | 手水鉢を支える天邪鬼 |
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鐘楼堂 | 本坊・納経所 | 修行大師像 | 水子地蔵尊 | |
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大クスノキ | 香川県の保存木 | 小松尾寺のカヤ | 小松尾寺のカヤ説明 |
Jinne_in 2017. 4. 4 参拝
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◆ ここは八十八ヶ所中、ただ一ヶ所、同じ境内に札所が二つあるところです。観音寺市、琴禅山(58.6m)の中腹にあり、駐車場を出るとすぐ山門があり、正面の石段を登るとすぐ境内があり、正面に観音寺の大志堂、そこから右が観音寺、左が神恵院になっている。納経所は左の神恵院の境内にあるが御朱印は二ヶ寺分を押してもらえる、当然納経料も二ヶ寺分の600円。開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に移されました。以降、「神恵院」は西金堂を本堂に、阿弥陀如来像を本尊としています。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 神恵院・観音寺 境内への参道 | 神恵院・観音寺 境内案内 |
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本堂 | 本堂入口 | 本堂(内部) | 大志堂 | 十王堂・大子堂 |
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手水場(神恵院と共用) | 案内 | 客殿 | 納経所(神恵院と共用) |
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Wikimedia Commonsより | 銭形砂絵説明 | 銭形砂絵のいわれ | 弓張月 |
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Kannon_ji 2017. 4. 4 参拝
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◆ この地方で「おかんおんさん」といえばこの寺のことである。市名にも観音寺の名を貸している。山門を潜り石段を上がると正面に大志堂があり右が観音寺境内(左が神恵院)。創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称していた。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。桓武天皇はじめ三代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。
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仁王門(神恵院と同) | 密迹金剛 (神恵院と同) | 那羅延金剛 (神恵院と同) | 神恵院・観音寺 境内への参道 | 神恵院・観音寺 境内案内 |
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本堂 | 大志堂 | 薬師堂への石段 | 薬師堂 | 心経殿 |
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鐘楼 | 愛染堂 | 宝物館 | 梧桐庵 | 四国遺産「観音寺」 |
Motoyama_ji 2017. 4. 4 参拝
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◆ 町中に一際高い五重塔が浮かんでいる、本山寺へはこの塔が目印である。寺の本堂は大同2年(807)平城天皇の勅願により弘法大師が一夜の内に建立したと伝えられている。この用材は徳島三好市井川町から伐採した。本尊の馬頭観世音、脇士に阿弥陀如来と薬師如来を彫刻して安置された。その後本堂は鎌倉時代に大修理され、また昭和30年にも解体修復されて現在は国宝である。建物は五間四方で廻縁がつき単層瓦ぶきでなだらかな屋根の曲線が美しい。五重塔は大同4年に弘法大師が建立し、天暦2年(948)修理した。現在の塔は大正2年に建て替えたもの、88ヶ所中五重塔があるのは31番竹林寺、75番善通寺しかない。本尊の脇士として祀られている阿弥陀如来にこんな話が残っている。天正の頃長宗我部元親の軍勢が攻め入り寺に進駐しようとした。ときの住職がそれを阻止しようとしたため兵は一刀のもとに切りつけた。ところが住職は倒れず拒み続けた。一人の武士が本堂に入り、開いた厨子の中で阿弥陀如来の右手から血を滴らせて立っていた。驚いた武士たちは境内から退き、伽藍は安泰であった。このことから阿弥陀如来を別名”太刀受けの弥陀”と呼ばれるようになった。阿波、讃岐、伊予の多くの寺が長宗我部によって焼かれたが、この寺は兵火を免れたのである。なお五重塔は現在平成の大修復ということで足場が組まれ見ることは出来ない。
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国指定仁王門(八脚門) | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 境内からの仁王門 | 修復前の五重塔 |
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本堂 | 国宝、本堂案内板 | 大志堂 | 鐘楼 | 手水舎 |
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鐘楼堂 | 阿弥陀堂 | 十王堂 | 鎮守堂 | 客殿門 |
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赤殿 | 山門 | 弘法大師像 | 修行大師像 | 弘法大師像 |
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茶室 | 納経所 | 修復中の五重塔 |
Iyadani_ji 2017. 4. 4 参拝
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◆ 弥谷山は三ツの峰からなっており昔から三朶(さんだ)の峰ともいわれ、弥谷寺はこの山の中腹にあり、死霊のゆく山といわれている。麓の村や近辺の島は「イヤダニマイリ」の風習が未だに残っている。駐車場からだらだら坂や石段を登っていくと仁王門の手前に名物のあめ湯やところてんを売る俳句茶屋があり、参道の両側には古い石仏や五輪塔が並んでいて、そこから百八段の鉄の階段が踊り場無しで一気に登ると大志堂がある。履物を脱いで堂内に上がると、須弥壇の後ろに廊下があり、中は暗い岩の洞穴。弘法大師が真言密教の学問を修されたところで、岩の入り口が獅子が口を開けた形に似ているので”獅子の霊厳”と呼ばれている求聞窟である。本堂へは大志堂を下って右へ、坂道、石段を登ってさらに200m先の山上にある。鐘楼堂から左へ、観音堂、十王堂、岩窟の護摩堂を過ぎると、右の険しい崖に弘法大師が彫られたという弥陀三尊の摩崖仏がある。この山上から眺めると四国四国の他、遠く中国地方の備前、備中、備後、安芸の四ヶ国も見渡せることから、初めはこの寺を八国寺と称していた。また登り口から本堂までの石段(鉄の階段も含んで)の総計は六百四十段。八十八ヶ所の中では随一である。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門、境内から | 四国遺産「弥谷寺」 |
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最初の石段 | 俳句茶屋 | 108階段説明 | 踊り場無しの108階段 | 手水舎 |
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弥谷寺案内 | 多宝塔 | 修行大師像 | 鐘楼 | 観音堂 |
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十王堂 | 大志堂(中に納経所) | 大志堂(上履を脱いで) | 大志堂奥の獅子の岩屋 | 岩窟の護摩堂 |
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本堂への最後の石段 | 最高所の本堂 | 摩崖仏 | 摩崖仏の説明 | 他にもあちこちに 彫られた石仏が |
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弥谷寺からの三豊平野の眺望 |
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他にもあちこちに 彫られた石仏が | 水場之洞窟 | 本坊 | 下の駐車場にある 天霧城跡案内 | 天霧山城跡へ |
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Mandara_ji 2017.1.10
参拝
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◆ 寺は讃岐の領主・佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建され、世坂寺と称していたが、大師が唐の留学を終えて帰国後、本尊の大日如来を祀り、金剛、胎蔵の両界曼荼羅を安置して堂塔を建てた。唐の青龍寺を模したもので、大同二年から三年がかりで造営し、寺号を我拝師山曼荼羅寺と改めた。寺号を改名した時、大師は庭に記念の松をお手植えされ”不老の松”と呼ばれ、樹高は高くなく4mほどだが、四方18mに広がり、傘が開いたような形になっていたそうだが、残念ながら現在は石碑のみで枯れて無くなったそうである。本堂と大師堂の間には”西行の昼寝石”と”笠かけ桜”がある。西行法師は平安末期の歌人として有名だが、西行はこの地で7年間暮らしたそうである。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 四国遺産「曼荼羅寺」 | 手水舎 |
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本堂 | 大志堂 | 鐘楼 | 観音堂 | 護摩堂 |
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不老松、現在枯れて無 | 笠松大師 | 修行大師 | 愛染明王 | 水子地蔵尊 |
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延命地蔵 | 納経所 | 旧寺の鬼瓦 |
Syusyaka_ji 2017.3.17 参拝
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◆ 曼荼羅寺から南へのだらだら坂を約500m登ると出釈迦寺がある。四国八十八ヶ所の中で、同じ境内の68番神恵寺と69番観音寺を除けば二つの寺は最短距離である。伝説によれば、弘法大師が7歳の時この我拝師山(481m)に登り、「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。
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参道 | 山門 | 本堂 | 大志堂 | 手水舎 |
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捨身ヶ嶽禅定説明 | 修行大師像 | 三鈷の松 | 我拝師山出釈迦寺石板 | 境内からの山門 |
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求聞持大師 | 求聞持大師説明 | 地蔵堂 | 捨身ヶ嶽遥拝所 | 虚空菩薩像 |
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修行大師像 | 鐘楼(工事中) | 干支別守り本尊 | 納経所 | 我拝師山と 奥の院捨身ヶ嶽禅定 |
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出釈迦寺より善通寺市街を望む |
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」