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Kouyama_ji 2017.3.17 参拝
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◆ 出釈迦寺から善通寺に向かう県道を行くと、道の左に小高い山がある。山の名は甲山(かぶとやま)、寺はその東側にある。弘仁の頃、甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養したそうです。その後大師は近くの満濃池の築堤を朝廷から命ぜられ、この地に赴任して、至難といわれた業を成し遂げた。その労に対して朝廷から賜った二万銭の一部で、老人の現れた甲山の麓に堂塔を建て、甲山寺と名づけて自刻の薬師如来を本尊として安置した。正面に本堂があり、左が大師堂、鐘楼、毘沙門天の岩窟があり、岩窟は間口2.5m、奥行き3m程で正面に毘沙門天石像が安置されている。
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山門 | 境内から山門 | 境内にある山門 | 手水舎 | 本堂 |
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大志堂 | 毘沙門堂 | 鐘楼 | 修行大師像 | 子安地蔵 |
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親子地蔵尊 | 淡島大明神 | 日本遺産「四国遍路」 | 納経所 |
Zentsuu_ji 2017.1.10 参拝
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◆ ここは真言宗善通寺派の総本山。高野山、京都の東寺と共に弘法大師三大霊跡の一つである。善通寺は大師の父、佐伯善通(よしみち)卿が寄進したこの境内地に、大師が般若三蔵より請求したインド八塔の霊土を敷き、恩師恵果阿闍梨の青龍寺に模して伽藍を建立、六年をかけて弘仁四年に落成。寺の背後には香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五峰があるところから山号を五岳山、父君の名をとって寺号を善通寺とした。境内は東院(伽藍)と西院(誕生院)に分かれ、門は東門(赤門)と南門(大門)、西院へは仁王門がある。南大門を入ると右に五重塔、釈迦堂、正面に金堂(薬師堂)がある。高さ45mの五重塔は大師が五智如来と仏舎利を納めて建立したが、何度かの火災で焼失、現在の塔は明治17年に3度目の落慶したもので、総欅で全国有数の大塔である。金堂(本堂)は七間四面の二層造り、周囲は善女龍王社、、大師手掘りの井戸、運長作の釈迦如来を祀る常行堂。法然上人の逆修の塔、足利尊氏の利生塔等がある。中門(仁王門)からは大師ご誕生の西院。門から回廊を行くと御影堂、礼堂、中殿、供養殿、奥殿となっているが、礼堂と中殿は大師の父善通卿の館の跡、奥殿は母玉依御前の館跡。御影堂の地下には全長90mの暗黒の中を行く”戒壇めぐり”がある。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門を西院から | 大志堂(御影堂) | ||||||||||||
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手水舎 | 焼香所 | 仁王門から 大志堂への回廊 | 親鸞堂 | 親鸞上人御尊像 由来 |
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西院、仁王門から大志堂、御影堂 |
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善通寺境内案内図 | 駐車場からの正覚門 | 護摩堂 | ||
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地蔵堂 | 鐘楼 | 聖天堂 | 光明殿 | ビルマ戦没者慰霊塔 |
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遍照閣 | 遍照閣説明 | 七福神 | 怨親平等の碑 | |
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蛙の謂れ | 地蔵堂 | 納経所 | 宝物殿 |
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南大門と五重塔 | 南大門を境内から | 赤門 | 本堂(金堂) | 手水場 |
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鐘楼 | 五重大塔 | 五重大塔説明 | 花蔵院 | |
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三帝御廟 | 三帝御廟説明 | 佐伯祖廟 | 佐伯祖廟説明 | 観智院 |
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観智院説明 | 弘法大師誕生時からの大楠 | 大楠説明 | 五百羅漢 | 五百羅漢像 |
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Konzou_ji 2017.3.17 参拝
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◆ 昔の讃岐の那珂郡と多度郡は昔から優れた人物が輩出している。多度郡弘田郷の豪族であった佐伯一門からは、弘法大師や知泉、円珍(智証)、真雅(法光)等の高僧を輩出した。中でも智証大師は善通寺から3キロの金倉郷に弘法大師の姪を母として弘仁5年に生まれた。つまり弘法大師の甥にあたる。金倉寺は智証大師の祖父・和気道善によって宝亀5年(774)に開創された寺で、道善寺と称していた。智証大師は唐から帰国後暫くこの寺に住まい、先祖の菩提にと、唐の青龍寺に模して伽藍を造営した。仁寿元年(851)には勅願寺となり延長6年(928)に醍醐天皇が金倉の郷にあるとのことで金倉寺と改称した。その頃の寺は南北8キロ、東西4キロの広大な境内と132の僧坊があり盛んであったが、建武の争乱、永正、天文の兵火で次第に縮小した。本尊は智証大師作の薬師如来。本堂左の詞梨帝母堂は鬼子母神を祀ったもので、鬼子母神が日本で最初に出現したものだそうである。金倉寺は明治時代、乃木大将が善通寺の第十一師団長のとき、この寺に2年7か月、下宿していたことでも有名である。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 智証大師誕生地 訶梨帝母堂 | 仁王門を境内から |
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本堂 | 大志堂 | 焼香所 | 手水舎 | 智証大師供養塔 |
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入山大師像(智証大師) | 訶梨帝母堂 | 大聖歓喜天 | 乃木将軍銅像石碑 | 乃木将軍銅像 |
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一太郎親子松 | 乃木将軍妻返し松 | 乃木将軍袖章記 | 日本遺産「四国遍路」 | 納経所 |
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お砂踏み道場 | 〃 内部 |
Douryuu_ji 2017.3.17 参拝
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◆ ゆったりとした境内で、仁王門脇の池の中で、石地蔵が噴水を浴びている。この道隆寺は「鴨のお大師さん」とも呼ばれている。山号にもある通り、昔この辺りは一大桑園であったそうである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという、その後弘法大師が薬師如来を刻み本尊とした。朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 境内からの仁王門 | 手水舎 |
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本堂 | 大志堂 | 鐘楼 | 潜徳院殿堂 | 弘法大師 千五十回忌之塔 |
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北門 | 北門を境内から | 妙見宮 | 納経所 | 淡島堂 |
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修行大師様と衛門三郎 | 日本百観音 | カン頂堀 | もどり観音 | 愚痴きき地蔵 |
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仏足跡 | 仏足跡説明 | 交通安全観音 | 加茂稲荷大明神 |
Gousyou_ji 2017. 2.16 参拝
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◆ 宇多津町は、かって金毘羅参詣の船で賑わった丸亀、多度津港は有名であったが、この宇多津も”津の郷”と呼ばれ、古くから開けていた港町である。南北朝時代には守護細川頼之の根拠地としても栄えたところ。往時から港町として栄え、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。弘法大師が唐に渡る時、ここの海上を通ると、夢の中に阿弥陀如来が現れて「なんじ帰朝の後、この地の一茎二枝の大樹で二像を作れ。その一像は我、一像はなんじなり」大師は帰朝後、ここに来て阿弥陀如来夢告の大樹で、二像を刻んで近くのここ行基菩薩開基の道場寺にこれを納めた。大師が自像を納める時「末世のわが信者、この地に詣で、法のごとく信仰せば、如何なる願いも一願は成就せしめん」と言われたことで、それからここのお大師さんは”日切り大師”と呼ばれる様になったのである。ある時時宗の一遍上人がこの寺に来られ、堂宇を修復して念仏の道場として、江戸初期になって宗派が時宗となった。
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山門 | 郷照寺案内 | 駐車場から境内へ | 大志堂 | 手水舎 |
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鐘楼 | 釣鐘と龍神さま | 大志堂への石段 | 大志堂 | 淡島明神堂 |
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大志堂前の 万躰観音洞地下入口 | 万躰観音洞内部 | 淡島大明神 | 修行大師 波切不動明王 | 讃岐の三大 ぽっくりさま |
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常盤明神 | 納経所 | 庚申堂 | 以空上人と天女のお話 | 日本遺産「四国遍路」 |
Tennou_ji 2017. 2.16 参拝
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◆ 日本武尊の第五皇子・武殻王は八十八人の兵を軍船に乗り込ませ、内海に迷い込んだ悪魚退治に乗り出した。船は悪魚の毒気で倒れてしまう。この時横潮明神が泉の水を持って現れそれを飲むと回復した。以来泉の水を八十八の水とも、矢蘇場の水とも言うようになる。大師が弘仁年間(810?24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。
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三輪鳥居 | 天皇寺石板 | 本堂 | 大志堂 | 手水舎 |
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旧大志堂 | 高照院 | 御神馬 | 御神木「楠木」 | 御神木「楠木」 |
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白峯宮 | 御神木「招魂の木」 | 御神木「やぶつばき」 | 納経所 |
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Kokubun_ji 2017.2.16 参拝
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◆ 聖武天皇の勅令で建立した一国一寺の国分寺である。仁王門を潜って入ると境内は広く、両側に八十八ヶ所ご本尊の石像がずらり並んでいて、右側には七重塔跡があり、十五個の礎石が残っている。正面の本堂は鎌倉中期に建てられ、全国の国分寺中、最も古い建物と言われている。また山門脇には七重塔の礎石も残っており、現存していれば京都、東寺・五重塔を超す大塔だったと言われています。この本堂と鐘楼だけが長宗我部の兵火から免れ、共に国の重要文化財に指定されている。中でも梵鐘は高さ1.3m、直径90cm、厚さ10cm、重さ1tonで全国の梵鐘では最も古いものの一つといわれている。この鐘には数々の伝説があり、中でも当時の領主、生駒一正が場内の時鐘にしようとして、家臣300人を使って運び込んだが、音は鳴らず以来場内に様々な怪異が起こったので、寺に返したところ10人の人夫で楽々と帰り、再び美しい音色が聞こえるようになったという伝説が残っています。
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」