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Shiromine_ji 2017. 2.16 参拝
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◆ 香川県の五色台は黄峰、白峰、紅峰、青峰、黒峰の五峰からなっているのでこの名がある。その最も西寄りにある白峰(337m)に白峯寺があるが、また崇徳天皇の御陵があることでも有名である。弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。白峯寺といえば有名な物語が二つあり「啼けばきく きけば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」これは保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇の句と、三年後、上皇と親しかった西行法師が詣でた話は上田秋成作「雨月物語」の伝説で有名です。その後も都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納。また、悲話を伝える玉章木(たまずさのき)も佇んでいます。境内の山門は珍しい形の門で、棟が七つあるところから”七棟門”と呼ばれている高麗門形式のもの。門を入ると左に茶堂、宝物館、右に本坊、納経所があり、参道を左に折れると勅額門で、ここを入ると崇徳天皇の御廟所、頓正寺殿である。勅額門の手前を右に石段を登ると右に鐘楼、左に薬師堂、行者堂、阿弥陀堂が 階段状に建ち、本堂は石段を登りきったところにある。
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山門(七棟門) | 七棟門説明 | 本堂 | 大志堂 | 本堂・大志堂説明 |
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手水舎 | 鐘楼 | 薬師堂 | 廻向堂 | 行者堂 |
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阿弥陀堂 | 阿弥陀堂説明 | 水子地蔵尊 | 仏足石 | 瑜キ塔 |
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十三重石塔(重文) | 十三重石塔説明 | 弁財天 | 玉章の木 | 玉章の木説明 |
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白峯寺客殿門 | 白峯寺客殿説明 | 納経所(護摩堂) | 四国遺産「白峯寺」
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勅願門 | 頓正寺殿 | 崇徳上皇御陵 | 西行像 | 相模坊大権現 日本八天狗の一狗 |
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Negoro_ji 2017. 2.16 参拝
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◆ 五つの峰を五色台と呼ばれているが、弘法大師がこの地に来られた時、五智如来を感得されたのでこの五仏に因んで青黄赤白黒の色別の峰として名付けた。そしてこれらの主峰・青峰に五大明王を祀り華蔵院とした。また智証大師が千手観世を刻み千手院を創建し、この二院を総称して根香寺としたと伝えられている。山門から石段を下ると杉林の参道、再び石段を登ると右に役の行者、左に牛鬼の像がある。約4百年前、牛鬼と呼ばれる怪獣が現れ村人に危害を加えたので、弓の名人・山田蔵人高清が根香寺に祈願をしこれを退治、その角を納めた、この角が今も寺に保存されている。本尊千手観世音は後白河上皇の崇信厚く勅願所として千石千貫の寺領を賜り、三十三年目開扉の秘伝とされていて、国指定の重文である。本堂前の回廊が”万体観音堂”になっていて、小さな観音様が綺麗な列を作って並んでいる。現在三万体余りという。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門、参道から | 日本遺産「根香寺」 |
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参道から見る境内 | 山門脇の牛鬼の像 | 牛鬼の像説明 | 本堂 | 本堂 |
本堂から見る万体観音堂の回廊 |
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大志堂 | 万体観音堂内部 | 手水舎 | 鐘楼 | 五大明王堂 |
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五大明王説明 | 役の行者像 | 悲願金剛 | 竜宮地蔵尊 | 牛頭観音 |
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水かけ不動尊 | 白猴欅 | 白猴欅説明 | 納経所 |
Ichinomiya_ji 2017. 2.16 参拝
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◆ 仁王門の向かいに田宮神社があり、当時はその別当寺であった。一宮寺は文武天皇の大宝年間(701〜703)に義淵僧正が開基し、初めは大宝院と称し、法相宗に属していたが、諸国に一宮が建てられた時、行基菩薩が堂塔を修築、田宮神社の別当職となり、寺号も一宮寺に改められた。また大同年間、弘法大師が訪れ 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。一の宮には、初め別当寺十二坊があったが、兵火にかかり、弥勒寺と末寺は没収されたが一宮寺は残された。しかし長宗我部によって堂塔は灰塵に帰し、僧宥勢によって再興され、延宝七年には高松藩主松平頼重により田村神社の別当職を解かれ、神仏分離した。本堂横に三基の石塔が並んでいるが、一の宮御陵と呼ばれ中央が孝霊天皇の供養塔、左右は百襲姫(ももそひめ)、五十狭斧産命(いそぎせりひこのみこと)のものといわれている。やはり本堂横には薬師堂があるがお堂というより、祠とよんだ方がいい石堂だが、この石の扉を開けて首を突っ込むと地獄の釜音が聞こえると言われている。地獄で亡者を投げ込む熱湯の釜の湯を沸かしている火の音と言われている。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門、境内より | 本堂 |
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大志堂 | 護摩堂 | 菩薩堂 | 手水舎 | 鐘楼 |
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西側の門 | 日本遺産「一宮寺」 | 薬師堂(地獄の釜) | 薬師如来縁起 | 一の宮御陵 |
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閻魔大王 | 厄除大師 | りえとまことの夫婦槙 | 納経所 |
Yashima_ji 2017. 1.26 参拝
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◆ 屋島は海に突き出した屋根のような形の台地で、有名な義経の弓流しや那須与一の扇の的等、源平合戦の古戦場の史蹟で知られている。山は南嶺と北嶺に分かれているが、屋島寺は元は北嶺にあったが弘法大師が弘仁六年(815)南嶺に移した。開基は天平の頃、唐から日本に来朝した唐僧鑑真和上が唐招提寺開基の後、北嶺に普賢堂を建て、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。弘仁六年、弘法大師が南嶺に本堂を建立、自刻の千手観世音菩薩を安置して本尊とした。駐車場とは離れている南の仁王門を入ると50m程の処に四天門、門の表と裏に二体ずつの四天王を安置の門で、阿波藩主、蜂須賀至央の寄進によるものである。境内は大変広く左に本坊、宝物館、右には鐘楼、千休堂(観音千体を祀る)、三体堂(阿弥陀如来、釈迦如来、鑑真上人)、大師堂等があり、梵鐘は平家供養の鐘として知られている。
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仁王門 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 四天門 蜂須賀至央の寄進 |
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四天王 | 四天王 | 山門(駐車場側) | 本堂 | |
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大志堂 | 手水舎 | 三体堂 | 千躰堂 | 鐘楼 |
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宝物館 | 熊野権現社 | 蓑山大明神説明 | 蓑山大明神 | |
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瑠璃宝の池(血の池) | ||||
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瑠璃宝の池 | 源平古戦場跡標識 | 屋嶋城大手門 | 屋嶋城石垣 | 屋嶋城説明板 |
屋嶋城(やしまのき)とは!・・・・現地説明板より
663年の白村江の戦いでの敗戦後、国防の危機に際して、中大兄皇子は倭国を守るために九州から瀬戸内海にかけて山城を築かせました。屋嶋城はその一つで「日本書紀」に記されているそうです。
Yakuri_ji 2017. 1.16 参拝
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◆ 屋島のドライブウェイから東を見ると下に源平の古戦場があり、更に東を見ると山が五つに割れたような五剣山が見えます。八栗寺は淳和天皇の天長六年(827)の創建で弘法大師の開基といわれている。寺伝によれば、弘法大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山または剣五山と名づけらました。また大師自ら千手観音を刻み堂宇を建て、これを安置して本尊としたので千手院と名付けた。五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登りました。そして仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門、境内より | 日本遺産「八栗寺」 |
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本堂 | 大志堂 | 聖天堂 | 手水舎 | 焼香所 |
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鐘楼 | 多宝塔 | 地蔵菩薩 | 十一面観世音菩薩 | 聖観世音菩薩 |
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納経所 | 88ヶ所石仏霊場 | 石仏霊場 | 石仏霊場 | 石仏霊場 |
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石仏霊場 | 菩提樹 | 八栗寺案内 | 五剣山 |
Shido_ji 2017. 1.26 参拝
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◆ この寺に伝わる数々の伝説は多いが、その中でも謡曲の”海女”等に残る玉取りの海女の話であろう。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。寺の西側にある山門は寛文十年(1670)、高松藩主公建立で、珍しい建築様式の三棟門で、日本三大名門の一つ。志度は江戸時代の奇才”平賀源内”の生まれた処であり、山門の前の常楽寺に墓や、近くには記念館もあります。境内は平成の大修理の前ということだろうか、枯れた草木や木々が目立ちます。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 門を境内より見る | 志度寺案内 |
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山門前より見る五重塔 | 本堂 | 大志堂 | 手水舎 | 鐘楼 |
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護摩堂 | 奪衣婆堂 | 三尊仏 | 四国八十八箇所 光明真言 | 覚阿上人霊塔 |
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薬師堂 | 芳室文塚・松風塚 | 生駒親正墓案内 | 生駒親正の墓 | 海女の墓説明板 |
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古址海女の墓石柱 | 海女の墓 | 四国遺産「志度寺」 | 納経所 | 三社 |
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境内案内 | 平賀源内墓所 「常楽寺」 | 平賀源内の墓 |
Nagao_ji 2017. 1.26 参拝
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◆ 香川県の中央部、さぬき市長岡町の町中にある山門は鐘楼も兼ねた造りで、山門の前にある国の重要文化財である経幢(きょうどう)が目を引く。経文を収めた石塔で、一つは弘安六年(1283)、もう一つは弘安九年と刻まれている。建立年代から、蒙古軍が二度にわたって襲来してきた文永・弘安の役。三度目の襲来は無かったが、三度目の襲来に備えて、戦勝を祈願した「経幢」ではなかったかと言われている。縁起によると、天平十一年(739)行基菩薩がこの地に巡錫した際、道端の楊柳を切って聖観世音を刻み小堂を建てて尊像を安置したのが寺の始まり。その後弘法大師が来錫され、、年頭七夜の護摩秘法を修し、その符を集まった信者に投げ与えられた。堂塔はその後長宗我部の兵火に遭い荒廃、再建を繰り返す。その間に真言宗から天台宗に改宗した。護摩堂の白壁に添って、静御前剃髪の塚がある。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 仁王門を境内から | 石柱 |
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経幢説明板 | 経幢(弘安六年) | 経幢(弘安九年) | 本堂 | 大志堂 |
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手水舎 | 東門 | 東門説明板 | 護摩堂 | 本坊膳所 |
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松平頼重公御成門 | 静御前剃髪塚 | 天神宮 | 納経所 | 大楠 |
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Ookubo_ji 2017. 1.26 参拝
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◆ いよいよ此処が結願(けちがん)の寺、大窪寺。一番霊山寺からぐるっと四国を千数百キロを巡礼してきたお遍路さんは感激で目がしらが熱くなると言います。縁起によると、元正天皇の頃、行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持(ぐもんじ)法を修法し大きな窪の傍らに堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくありません。巡拝者は巡礼の支えとなった金剛杖や菅笠をお礼の意味を込めて納めています。無数の菅笠や杖は”同行二人”の信仰に生きた人々の”証である。”
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仁王門 | 仁王門 | 大窪寺略縁起 | 本堂 | 大志堂 |
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手水舎 | 護摩堂 | 鐘楼 | 修行大師様 | 納経所 |
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原爆の灯 | 寶杖堂(納められた 大量の金剛杖) | 西の仁王門 | 西の仁王門 | 密迹金剛 |
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那羅延金剛 | 日本遺産「大窪寺」 | 手水鉢(凍っています) | 四国霊場結願所 | 藤棚 |
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」