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ベイシー写真館

徳島城 1  2  3  徳島お城一覧  阿波九城  蜂須賀家墓所  Gallery3  CG に戻る

阿波九城
城名称初代藩主石高
一宮城益田宮内少輔持正不明
撫養城益田内膳正正忠5000石
川島城林図書能勝道感5500石
西条城森監物某5500石
大西城牛田掃部助一長5300石
海部城中村右近太夫重友5000石
牛岐城稲山(賀嶋)帯刀10000石
脇 城稲田左馬弁植元4700石
仁宇城山田織部佐宗重5000石

蜂須賀氏の支城「阿波九城」とは

 天正13年(1585)に豊臣秀吉による四国平定の戦功により、蜂須賀正勝(小六)は阿波17万石を拝領され、子の家正にこれを譲り入部してきました。最初家正は一宮城に入封したがまもなく吉野川河口近くにある猪山に徳島城を築き、徳島城を本城として領内の要所九ヶ所にあった既存の城郭を改修し「阿波九城」と称する支城を整備した。各城代には蜂須賀家より兵があてがわれ、郡奉行も兼ねていた。慶長20年(1615年)の一国一城令により、寛政15年(1638年)阿波九城は廃城となったが、徹底的な破却は行なわれなかった。これは一揆などの有事の際に再利用する目的であったとする説がある。

一宮城
所在地徳島市一宮町和山西山
別名
城形態山城
築城期暦応元年(1338)
築城者小笠原宮内大輔長宗
主要城主宮内大輔成宗・長門守成助他12代
遺構本丸跡・石塁・
文化財指定徳島市指定
一宮城周辺地図

阿波九城の一つ「一宮城」とは

 徳島市内、南の一宮町に位置する。九城の中では城下に最も近い位置にある。もともと一宮氏の居城であったが、天正10年(1582)の土佐の長宗我部氏の侵攻により一宮成祐が夷山城(八万町)で謀殺され、長宗我部家臣、江村親俊と谷忠澄が城代を勤めた。天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国平定で、豊臣秀長に攻められて開城となり、蜂須賀氏が徳島城築城までの期間居城とした。移転後は家臣益田長行が城代を勤めていた。

一宮城天守跡
撫養城
所在地鳴門市撫養町岡崎
別名岡崎城・林崎城
城形態平山城
築城期天正13年(1585)
築城者益田内膳正忠
主要城主益田内膳正忠・真下飛騨守(長宗我部氏配下)
遺構本丸跡・石垣・(模擬天守)
文化財指定鳴門市指定

阿波九城の一つ「撫養城」とは

 鳴門市妙見山山上にあり、築城時期は天正13年とされているが、古くは小笠原源氏の居城であった。またこの撫養城は足利将軍ゆかりの地でその当時から城塁が作られていたらしい。大永3年(1523)4月9日、十代将軍足利義稙がこの地で生涯を終えたし、十四代義栄もこの地で客死したそうです。天正十年に長宗我部元親が阿波へ侵攻し、三好方が各地で大敗した。撫養城も長宗我部配下の真下飛騨守が城代となったが秀吉の四国平定して、軍功のあった蜂須賀家政が領主となり重臣の益田内膳正忠を城代とした。

妙見山頂より模擬天守を望む鳴門市街北より撫養城模擬天守撫養城跡・妙見神社
妙見神社妙見神社境内に残る石垣(右側)妙見神社境内に残る石垣(左側)妙見神社下に残る石垣
鳴門海峡を望む千畳敷北側の苔むした石垣舌洗池
川島城
所在地吉野川市川島町城山
別名北の城
城形態平山城
築城期天正初期
築城者川島兵衛進惟忠
主要城主川島兵衛進惟忠・林能勝
遺構曲輪(模擬天守)・二、三の丸
文化財指定吉野川市指定

阿波九城の一つ「川島城」とは

 吉野川市川島町の吉野川南岸の川岸段丘上にある。この水陸の要衝に始めて城を構えたのは三好長慶一族の川島兵衛進惟忠である。元亀3年、長慶の甥で勝瑞城主の三好長治は十河存保らを派遣して、篠原長房の籠もる上桜城を攻めて滅ぼした。兵衛進はその時の功により、上桜城より1km北のこの地に川島城を築いた。別名「北の城」というのは上桜城に対しての呼び名である。秀吉の四国征伐の際、蜂須賀家政が入国すると家老、林能勝に命じて修築して城番となった。

川島城模擬天守史跡案内板川島城模擬天守から郭跡、吉野川・阿讃山脈を望む
林図書助能勝(道感)の供養塔(丈六寺)本丸跡二の丸跡川島神社
川島城公園案内図行先案内岩の鼻本丸跡から吉野川下流を望む岩の鼻本丸跡から吉野川上流を望む
ミニ四国八十八ヶ所模擬天守内の展示物
西条城
所在地阿波市吉野町
別名戎城
城形態平城
築城期貞和2年(1346)
築城者左近将監備前守春之
主要城主岡本美作守清宗・森春之・森監物
遺構堀跡
文化財指定

阿波九城の一つ「西条城」とは

 城跡は阿波市吉野町西条の町口にあり、一条神社近くの天守台(戎台)と呼ばれる小高い丘のあたりがその跡。この城の築城年代は貞和2年、左近将監備前守春之が秋月城の支城として築城したと伝えられている。天文年間(1532〜55)には ※岡本美作守清宗が居城していたが、天正10年、長宗我部元親の侵攻で落城した。その後、秀吉の四国征伐の際、蜂須賀家政が入国すると家臣、森監物に命じて修築して城番となった。
※この人の娘が有名な三好実休の妻、小少将

西条東城跡西条東城跡を南から望む一条神社西条東城絵図(江戸時代後期)
大西城
所在地三好市池田町ウエノ
別名池田城
城形態平山城
築城期承久3年(1221)
築城者小笠原長清・同長経
主要城主小笠原長経・牛田掃部尉
遺構本丸・石垣・城郭並木
文化財指定

阿波九城の一つ「大西城」とは

 三好市池田町ウエノの吉野川上流南岸の河岸段丘にある。四国のヘソといわれる中央にあり、讃岐・伊予・土佐と境を接し重要拠点である。承久の乱で当時の阿波の守護、佐々木経高が朝廷に味方して敗れ自殺。鎌倉幕府は戦功のあった信濃の小笠原長清を阿波の守護に任命、子の長経が大西城を築いた。その後天正10年、長宗我部元親の侵攻で落城した。その後、秀吉の四国征伐の際、蜂須賀家政が入国すると功臣、牛田又右衛門(牛田掃部尉)に命じて修築して城番となった。寛永15年の一国一城令で破棄されたが、陣屋として残り明治までの四百年の幕を閉じた。

大西池田城跡石碑現存する石垣、現在は池田幼稚園建物の基礎部分である石垣案内板城郭並木、右側が急崖で天然の要害
海部城
所在地海部郡海陽町奥浦
別名鞆城
城形態平山城
築城期永禄年間(1578〜70)
築城者海部左近将監友光
主要城主海部左近将監友光・中村右近太夫重友
益田宮内一政
遺構石垣
文化財指定

阿波九城の一つ「海部城」とは

 海部川河口南岸にある小山に築かれた阿波国最南端に位置する城。この城は元々海部左近将監友光が元亀2年に築城したのが始まり、しかし元亀2年土佐の長宗我部元親の弟島弥九郎(親益)が土佐の浦戸港より出帆したが強風で海部の那佐湾に停泊したが、海部友光は怪しい武士が侵入したものと勘違いして親益を殺してしまう。これを知った元親は手勢五千で阿・土国境に迫った。宍喰城は瞬く間に落ち、天正5年落城した。その後秀吉の四国征伐の際、蜂須賀家政が入国すると、中村右近太夫重友を城番として置いた。その後重友は池田城城番となり、代わって家老の益田宮内一政が城番となった。

海部城跡碑海部小学校校庭より見た城山判形人跡石碑判形人跡石碑
森志摩守と判形人の墓城跡と判形人館跡の間の切通し森志摩守元村の墓(鳴門道明寺)一部の郭跡
切岸東南部の登城口(現在津波避難の階段)海部陣屋跡
長宗我部元親の弟島弥九郎(親益)が侵入して殺された那佐湾(パノラマ)
牛岐城
所在地阿南市富岡町殿町
別名富岡城・浮亀城
城形態平山城
築城期観応2年(1351)
築城者安宅氏・新開氏
主要城主新開道善・香我部泰親・細山帯刀政慶
遺構石垣
文化財指定

阿波九城の一つ「牛岐城」とは

 天正3年以降、長宗我部が阿波に侵攻した時、新開道善は三好方として土佐方に味方した桑野城主東条関之兵衛の領分に侵入し度々の合戦に及んだ。しかし天正7年には土佐方の援軍を得た東条氏に破れ、土佐方に付いたがところが天正10年、織田信長の四国攻略軍の三好笑岩が阿波に攻めいると阿波の多くの武将は三好方に与した。これによって土佐方は牟岐まで撤退したが、本能寺の変で信長が倒れると元親は攻勢に転じ、中富川の合戦にも勝利して阿波をほぼ制圧した。城は阿南市富岡町にあり、天正14年に牛岐から富岡と地名を改めているので富岡城とも呼ばれている。戦国期には牛牧庄の地頭であった新開氏の居城であったが、天正10年新開道善が丈六寺において長宗我部方に抹殺(有名な丈六寺の血染めの天井)されると、元親の親戚にあたる香我部泰親が入った。蜂須賀氏阿波入部後は細山帯刀(後の賀島主水)政慶が支城主を勤めた。元の牛岐城跡は新開神社と山が連なる瓢箪形の山で、新開神社も郭の一部であったが道路工事で山の中央部分が削りとられている。

牛岐城跡公園牛岐城跡公園高麗門、近世の建造牛岐城跡今も残る石垣の残存、館内にあります
牛岐城歴史表石碑牛岐城跡公園新開遠江守実綱を祀る新開神社
新開神社新開遠江守実綱の碑桑野川対岸より見る神社へはこの間から
新開遠江守実綱の墓(丈六寺)新開遠江守実綱の墓(丈六寺)丈六寺徳雲院の血天井徳雲院の血天井案内板
脇城
所在地美馬市脇町大字脇町
別名虎伏城
城形態山城
築城期天文2年(1533)
築城者三好長慶
主要城主三河守兼則・武田信顕・稲田種元
遺構本丸、二の丸・空掘・井戸・郭跡
文化財指定

阿波九城の一つ「脇城」とは

 脇町市街地北方に広がる城山台地の西端にあり、付近の地形が虎が寝た形に似ていることから虎伏城とも呼ばれている。戦国時代に脇権守という人物が館を構えたのが始まりといわれている。天文2年に三好長慶が築城し、三河守兼則に守らせた。その後武田信玄の異母弟といわれた武田信顕が城主となった。天正7年に長宗我部元親が攻めよせた際に寝返って長宗我部勢に付き三好方を脇城下で全滅させた。この後再び三好康長方についたが、天正10年再び長宗我部勢が攻め寄せ落城した。落城後は長宗我部親吉が城代となったが天正13年の秀吉の四国攻めで、羽柴秀次の軍に屈して降伏、開場した。蜂須賀家政が阿波国の領主となり、家臣団筆頭の稲田種元に修築させて城番とし、阿波九城の一つになった。

主郭Uの南隅にある案内主郭T(本丸)主郭Tと主郭Uの間の堀切主郭Uの北東部
主郭Uの大部分を占める竹薮主郭Vは殆んど
太陽光発電が設置されている
主郭Vの南隅にある休憩所脇城縄張り図
秋葉神社、ここから登城秋葉神社秋葉神社から見る城下脇人神社
稲田種元の墓(丈六寺)
仁宇城
所在地徳島県那賀郡那賀町仁宇
別名和食城・仁宇山城
城形態平城
築城期戦国期
築城者湯浅対馬守兼朝
主要城主湯浅対馬守兼朝・山田八郎右衛門宗重
遺構空掘
文化財指定

阿波九城の一つ「仁宇城」とは

 名勝の鷲敷ラインに沿って猿滝山があり、この山に築かれた城が仁宇城(別名和食城)である。湯浅対馬守兼朝の居城だった。彼は天正年間に仁宇伊豆守の拠点として桑野城主東条関之兵衛と共に長宗我部氏に対抗したが長宗我部元親の圧力が強まったので講和を結び、姻戚関係まで持った。そして天正13年に蜂須賀氏が入国するまで仁宇谷地方の押さえとして権勢を振るった。蜂須賀氏の入国によって土豪としての特権を否定された仁宇谷衆は仁宇伊豆守を中心に蜂起した。世にいう仁宇谷一揆である。家政は山田八郎右衛門宗重に命じて鎮圧させた。その戦功により仁宇谷一円を与えられ、和食に居城した。

仁宇城跡仁宇城跡石柱国道195号より、入ってすぐ山田織部宗重の墓(鷲敷城代)丈六寺
仁宇谷百姓一揆の標柱仁宇谷百姓一揆供養塔仁宇谷百姓一揆説明板

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」