松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(堀の内)を置く連郭式平山城である。松山城の創設者は加藤喜明で関ヶ原の戦いで徳川方に従軍し、その戦功を認められ20万石となり慶長7年に伊予正木(愛媛県松前町)から道後の中央にある勝山に城郭を移すため、普請奉行に足立重信に命じて工事に着手、翌8年(1603)嘉明は居を新城下に移した。その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく完成。当時の天守は五重で壮観さを誇ったと伝えられているが、嘉明は松山で25年ののち、完成直前の寛永4年(1627)、会津へ転封される。その後蒲生氏郷の孫忠知が出羽国、上の山城から入国し、二ノ丸の築造を完成したが、寛永11年参勤交代の途中在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶。その後寛永12年(1635)伊勢国桑名城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年定行は幕府に配慮し、当時五重であった天守を三重に改築。ところが9代定國(8代将軍吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)、11代定通は復興工事に着手するが、16年目に定通の逝去と作業場の火災で頓挫する。これを引き継いだ12代勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。
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別名 | 勝山城・金亀城 |
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所在地 | 愛媛県松山市丸之内 |
城地種類 | 連郭式平山城 |
築城年代 | 慶長7年(1602) |
築城者 | 加藤嘉明 |
主要城主 | 加藤氏、松平(久松)氏 |
文化財史跡区分 | 重要文化財、大天守・乾櫓等、櫓7棟 戸無門・紫竹門等、門7棟 筋鉄門東塀等、塀7棟 |
西暦 | 城主 | 居城年、年数 | 摘要 |
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1603 | 加藤喜明 (20万石) | 慶長8年(25) | 慶長6年築城許可、同7年着工し同8年正木城より移る。天守五重。寛永4年会津40万石に転封。 |
1627 | 蒲生忠知 (24万石) | 寛永4年(7) | 蒲生氏郷の孫、出羽上の山城より移封、二ノ丸完成。寛永11年逝去、嗣子なく断絶。 |
1635 | 松平定行 (15万石) | 寛永12年(24) | 伊勢桑名より転封。徳川家康の異父同母弟松平定勝の子、寛永19年天守を三重に改築 |
1658 | 定頼 | 万治元年(5) | |
1662 | 定長 | 寛文2年(13) | |
1674 | 定直 | 延宝2年(47) | 今治藩主松平定時の子、延宝2年就封 |
1720 | 定英 | 享保5年(14) | |
1733 | 定喬 | 享保18年(31) | |
1763 | 定功 | 宝暦13年(3) | |
1765 | 定静 | 明和2年(15) | |
1779 | 定国 | 安永8年(26) | 天明4年(1764)天守落雷で焼失 |
1804 | 定則 | 文化元年(6) | |
1809 | 定通 | 文化6年(27) | 文政3年(1820)天守再建工事にかかる |
1835 | 勝善 | 天保6年(22) | 安政元年(1854)天守再建なる(現存) |
1856 | 勝成 | 安政3年(13) | |
1867 | 定昭 | 慶応3年(1) |
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