別名 | 久松城・葦陽城 |
所在地 | 広島県福山市丸之内1丁目 |
城地種類 | 輪郭式平山城 |
天守構造 | 複合式層塔型5重6階(1622年、非現存) (1966年RC造復興) |
築城年代 | 1622年(元和8年) |
築城者 | 水野勝成 |
主要城主 | 水野氏、阿部氏 |
遺構 | 櫓・門・鐘楼、石垣 |
再建造物 | 天守、月見櫓、御湯殿 |
文化財史跡区分 | 重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門) 福山市指定重要文化財(鐘楼) |
福山城の概要
徳川家康の従兄弟である水野勝成 が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑えとして備後国東南部と備中西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続いたが、元禄11年(1698年)5代藩主水野勝岑の早世により無嗣除封となり、福山藩は一時的に天領とされる。福山城の受け取りは伊予今治藩松平定陳と安芸三次藩浅野長澄によって、城の管理は讃岐丸亀藩京極高或によって行われた。このとき領内全域で検地が行われ、福山藩の石高(表高)は10万石から5万石増の15万石となった。元禄13年(1700年)、出羽国山形藩より松平忠雅が水野時代から5万石分の領地を削減された10万石で入封する。しかし、忠雅は10年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢桑名藩に移封させられ、同年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがそのほとんどが江戸住まいで福山に帰城することも希であった。
福山城古絵図
小場家文書付属福山城絵図(福山城パンフレットより)