別名 | 喜春城、錦江城 |
所在地 | 兵庫県明石市明石公園1-27 |
城郭構造 | 連郭梯郭混合式平山城 |
天守構造 | なし(天守台はあり) |
築城年代 | 1618年(元和4年) |
築城者 | 小笠原忠真 |
主要城主 | 小笠原家、戸田松平家、大久保家、 藤井松平家、本多家、越前松平家 |
文化財 史跡区分 | 国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡 |
明石城の概要
元和3年(1617)、小笠原忠政(のちの忠真)が信濃松本より明石に国替えとなり、明石城より南西約1km程の処にあった船上城に入ったところから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠が西国諸藩に対する備えとして、藩主小笠原忠政に新城の築城を命じた。秀忠は姫路城主、本多忠政の指導で3ヶ所の候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目(現在の価値で31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣した。
石垣の普請は元和5年(1618)の正月に始められて、本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、土塁や周辺堀の普請が同年八月に終わった。
普請を終え、同年九月から藩主小笠原忠政により櫓、御殿、城門、塀等の作事が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城となった伏見城や自領内の三木城等の資材を用いて建てたとされている。創建当初の坤櫓(ひつじさる)は伏見城の建物を幕府からもらいうけ移築された。 築城当時の明石城は、本丸に御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。
(明石城パンフレットより)