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ベイシー写真館

■徳島県の他の古城跡

平安・鎌倉時代

西光屋敷跡

■ 柿原・広長の合戦

 治承元年(1177)五月、京都東山鹿ヶ谷の山荘で法勝寺の僧源俊寛、藤原丹波少将成経、藤原左衛門尉師光、平判官康頼らが集まって平家討伐の密議を企てた。この時同志だった攝津国の豪族、多田蔵人太夫行綱が裏切って清盛に謀議を通報して密会を漏らされた。この時六波羅の館にいた清盛は急遽一門を集めて謀議の加盟者の捕縛を命じた。師光は同志と康頼の館に隠れたが、発覚してついに6月一日捕らえられた。西三条の清盛の館に送られた同志のうち、大納言藤原成親は官職剥奪の上備前国に流され同年七月斬罪に処せられ、師光は謀反の咎めで糾問去れた時、師光は清盛の面前で暴政を非難し大声で罵倒した。怒った清盛は師光に極刑を言い渡し、京中引き回しの上三条川原の処刑場で、口を横に引き裂かれて斬罪に処せられた。師光の子師高は、加賀の国司を免職されて尾張で殺され、京都の師経、師平も斬首された。応保二年(1162)、平家方に属していた名西郡桜間城の阿波民部大輔田口成良は築堤工事等に努力をそそいで清盛に尽くした。
師光が殺されて五年後の寿永元年(1182)、 成良は平家方の指図によって師光の本拠阿波市柿原の広長城に一斉攻撃をかけた。京都に上り官位の職を得て行動を共にした3人の子はいずれも殺されたが、五男の近藤広長は広長城に拠り、六男近藤六親家は板西城でいずれも逼塞の日々を送っていた。田口勢が城外に攻め寄せたとき、不意打ちの上、わずかばかりの兵で立て篭もった広長は、家従と共に抗戦したが、圧倒的な田口の軍勢に効しきれず城外に脱出した。わずかの家臣とともに逃れたが、追っ手の兵が迫ってきて窮地にたった広長は、土成の宮河内谷の森林内で自刃した。板西城の親家は、広長を支援したが田口氏に降伏して落命を免れた。

広長城跡広長城跡桜間城跡田口成良を祀る小祠
板西城跡後に近藤六親家の居城となる
新居見城
本庄城跡

■ 本庄の合戦

 今から八百年前、平家追討の命をうけた源九郎判官義経が、嵐のような勢いで阿波路を通り抜けて屋島の本陣にせまった。宇治川の合戦で大勝した義経は寿永三年(1184)、摂津の一の谷で、鵯越えの逆落としの戦法で、平家を完全に掃討して大勝利、京に晴れやかに凱旋した。この時、平家の九将軍はじめ捕虜数千名の打首がさらされ、おごる平家の悲惨な末路をまざまざと見せ付けた。一ノ谷の戦いで大敗した平知盛、教経は赤旗を掲げて最初九州に遁走したが、再び反撃に出るため四国の屋島に立て篭もった。義経は文治元年(1185)二月十六日、大坂の渡辺浦(福島区)から軍船五艘に百五十余騎を率いて、紀伊水道を横切って小松島尼子浦(勢合)に翌早朝上陸した。
赤石から西の天神山には近藤六親家が拠る新見城があり、さきに父師光は清盛に処刑され、兄広長は平家方の田口成良に殺され、平家方には重なる恨みを抱いていた親家である。義経が上陸した時、親家はこの機とばかりに馳せ参じ、国内の軍状や先導役を勤めた。まず義経は勝浦川西岸の本庄(熊山)城の城攻めにかかった。本庄城には平家方の勇将阿波民部大輔田口成良の弟、桜間介良遠が拠点を固めていた。熊山の本庄城は引城で、南500mの桜間山の麓に里城の桜間城(田林寺営)があった。義経は兵を二隊に分け本隊が本庄城を攻め、伊勢三郎が率いた兵が桜間の里城を攻めた。桜間の城兵はよく戦ったが、相手は富士川、一の谷等の合戦で大勝してきた源氏勢、やがて本丸に白旗がひらめいた。この時不運にも田口成良は阿波の兵を率いて屋島に出陣、長男伝内左衛門尉成直は河野氏を討つ為、三千の兵を率いて伊予に渡っていた。わずかばかりの留守兵で義経を迎えたので、ひとたまりもなく討ち破られた。守将の良遠は落城後八多の山中に身を隠したが、やがて長男の外記太夫良連と共に眉山の麓の鉢伏山で捕らえられて首討ちされた。

本庄(熊山)城跡田林寺桜間(田林寺営)跡田口成良を祀る小祠
義経上陸地点「勢合」義経上陸の碑史跡「旗山」義経騎馬像
騎馬像では日本最大
鳥坂城跡

■ 鳥坂の合戦

 文治元年(1185)十一月、源頼朝が鎌倉に本拠をおいて諸国に守護、地頭をおき同二年、佐々木中務丞経高が阿波・淡路・土佐三ヶ国の守護に任じられて入国し、名西郡石井の気延山の東端に鳥坂城を築いた。鳥坂城下の北の桜間城は平家が全盛の頃の中心勢力であり、なおかつ阿波守(国王)の任にあった阿波民部大輔田口成良の本拠であった。しかし屋島の合戦で敗者の憂目にあって、勢いをほこっていた田口氏も平家の滅亡により佐々木氏の国支配に抑えられた。当時、経高は京都で幕府の大番役で長男高重とともに頼朝の側近となり、鳥坂城は次男高廉が守った。しかし経高が在任して十三年後の正治元年(1199)、頼朝が急死して以来、源氏の衰えに乗じて幕府では執権政治の横暴が目立ちはじめ幕府の実力者梶原景時や有力者が殺害、免職、流罪の処分をうけた。頼朝の長子頼家は将軍ながら、幕府の実権は大江・北条氏の意のままになり、幕府の実権が北条氏に移ってからは暴政に非難の声が高まった。そこで倒幕を企てる不穏な京の町を鎮めるために、京の経高は阿波や四国の兵を京に集めた。数千人の兵を徴発した経高の行為は幕府への謀反として許し難いと激怒した頼家、執権の大江広元らは経高の罷免を要請して正治二年(1200)、守護職を解任した。承久三年(1221)五月、後鳥羽上皇は院政の回復を図り、倒幕の兵を挙げた。上皇は北条義時を討伐すべく、五畿七道諸国に宣旨を発した。官軍は最初京都の守護を倒したが、北条義時は十九万の大軍を率いて京都の六波羅に侵入した。以前より官軍に意を通じた経高はこの戦いに参加し、高重や野三刑部丞成綱(矢三城主)、平清基(麻植保司)らと共に、阿波の宮方勢で始め宇治、勢多方面で戦ったが、北条軍の猛攻撃で京都の東南部に退いた。大軍での包囲戦にあった官軍勢はいたるところで惨敗し、経高は山城国の鷲尾山に立て篭もった。窮地にたった経高は義時の和乞いの使者の目前でのど元を突いて自刃した。時に承久三年(1221)六月十六日であった。同年七月、倒幕を宣した後鳥羽上皇は隠岐、順徳天皇は佐渡、土御門上皇は土佐から後に阿波へ流遷された。北条義時に仕えて功を上げた小笠原信濃守長清が阿波の守護に任ぜられたが長清は京の六波羅奉行を勤めたためその子長経が入国した。長経は佐々木氏の勢力を一掃するため長経は貞応元年(1222)、鳥坂城の攻撃が行われた。わずかな手勢で鳥坂に立て篭もる高重の弟高廉に追手を差し向け城を包囲して攻撃すること数回、佐々木勢の支柱となっていた、平清基は、関東の合戦で消息が絶え、城の守兵は家従や近郷の土豪のみであったが茶臼山や気延山の要害を盾に攻防戦を繰り広げたが多勢に無勢で、抗戦の力を失った高廉は夜中密かに老臣の平岡利清や十数名の家臣を従えて逃れて名西山分の鬼籠野の山中にひそんだがもはや天運尽きたと悟った高廉は、携えていた弓矢を折り自刃した。この地方に残る弓折の地名はその所以である。

鳥坂城、登城口本丸跡苔むした古い石垣堀切跡
桜間城跡桜間文治行直を祀った祠

参考文献  鎌谷嘉喜氏著「阿波古戦場物語」「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編
     徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」