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ベイシー写真館

岐阜県

岐阜県恵那市明智町
マップは恵那市明智町ホームページより、未訪問
明智城岐阜城
未訪問未訪問

福井県

一乗谷朝倉氏遺跡明智神社
未訪問未訪問

滋賀県

坂本城跡明智塚
坂本城跡坂本城址公園明智光秀像明智塚明智塚
織田信長は、元亀二年(1571)、比叡山全山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓の滋賀郡一帯の支配を命じたのが、明智光秀で、高層の大天主と小天主がそびえる豪壮なお城でした。ルイス・フロイスは「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と言っていたそうである。坂本城は安土城より4年早く着工されていたので、近世の城郭の先駆的な存在でもありました。光秀は、坂本城を拠点として信長の命により近江平定に奔走していましたが「本能寺の変」のあとこの城は10年で落城いたしました。 明智光秀は、織田信長を京都本能寺で討ち、13日、山崎の合戦で敗れ、逃げる途中、京都小栗栖の藪で、土民に囲まれ、敢え無い最期を遂げました。光秀の悲報を受けとった光秀の娘婿、明智秀満は占拠していた安土城から、翌日早朝、坂本城へ出陣しました。秀満は、途中瀬田唐橋を守る織田方の武将山岡氏に進路を阻まれますが、それを振り切り、大津へ向かいました。大津を守っていたのは、秀吉軍の先鋒、勇猛でならす堀秀政でした。その軍に真っ向から対決を挑んだ秀満軍は、多くの手勢を失い、窮地にたたされましたが、秀満は、なんとも大胆に打出浜から馬を琵琶湖に乗り入れました。これが後世に名をはせる「明智左馬之介の湖水渡り」です。
東南寺盛安寺明智左馬之助湖水渡りの碑穴太衆積みの石垣
東南寺盛安寺明智左馬之助湖水渡りの碑穴太衆積みの石垣
西教寺
西教寺光秀と一族の菩提寺西教寺本堂戦国武将に仕えた人達の墓
戦国武将に仕えた人達の墓光秀の妻煕子の墓光秀の妻煕子の墓説明小説「細川ガラシャ夫人」案内
聖衆来迎寺瀬田城跡
瀬田城跡瀬田の唐橋
戦国時代、元亀元年(1570)、姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政は、越前の朝倉義景と組んで京に上る途中、織田方に阻止されこの付近で戦いました。坂本の合戦です。この時、織田軍の大将が宇佐山城城主、森蘭丸の父、森可成(よしなり)で、浅井・朝倉軍は三万の兵、森軍は三千の兵で、勝利は目に見えたものでありました。そのとき比叡山も浅井・朝倉軍に加わったといわれ、これが信長の比叡山焼き討ちの一因になったとも言われています。この時48歳で戦死した宇佐山城城主、森可成をこの寺の住職であった真雄上人(しんゆうしょうにん)は浅井方ではあったが、可成の死を悼んでここで葬ったといわれています。 瀬田川東側に軍事上の目的で築城された城。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、瀬田川に架かる瀬田橋は「急がば回れ」の語源ともなった橋で、戦国時代は交通・軍事上の重要戦略拠点であった。その瀬田橋のたもとにあった瀬田城も重要な位置を占めていた。天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため瀬田橋に軍を進めた。架橋を任されていた山岡景隆は織田信長への忠義を守り瀬田橋を焼き落とし明智光秀の軍を阻んだ。これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、天下の状勢に大きな影響を与えた。

京都府

本能寺山崎古戦場跡
本能寺跡現本能寺山崎古戦場跡案内山崎古戦場跡
明智光秀の塚明智光秀胴塚
明智光秀の塚明智光秀の塚説明明智光秀胴塚明智光秀胴塚説明
明智藪谷性寺
明智藪明智藪谷性寺明智光秀首塚

勝龍寺城(京都府長岡京市)
勝龍寺城勝龍寺城隅櫓勝龍寺城堀細川忠興・玉(ガラシャ)像

亀山城(京都府亀岡市)
明智光秀公築城亀山城石碑外堀亀山城亀山城
亀山城内堀(現在は万祥池)市内にある明智光秀公像亀山城古写真
明智光秀築城の亀山城
現在城跡は大正時代に新宗教「大本」が購入、城跡全体が「大本」の本部が置かれていて、本丸跡等が立ち入り禁止である。

福知山城(京都府福知山市)
福知山城福知山城福知山城福知山城古写真
詳細は福知山城別ページ参照