▲TOPへ戻る

ベイシー写真館

■徳島県の他の古城跡

美馬市 脇城(わきじょう)

 阿波九城(脇城)参照

脇 町 岩倉城(いわくらじょう)

城の形態山城
所在地徳島県美馬市脇町字田上
指定史跡美馬市指定史跡
規模30m×70m
城の歴史鎌倉期に、三好の郡領平右馬頭盛隆が叛乱した時、阿波の守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定、三好郡・美馬郡を領有した。戦国期の永禄年間(1558〜70)三好康永は、岩倉城を本格的に修築、美馬・三好二郡の押さえとして、その子徳太郎康俊に守らせた。
天正7年(1579)、長宗我部元親が重清城を攻略、続いて脇・岩倉城を囲んだが、よく戦い落とすことは出来なかった。しかし康俊も勝算がないことを悟り和睦、土佐勢が進駐した。同年12月、康俊は謀をもって勝瑞方を城下におびきよせこれを殲滅、これを岩倉合戦といい、阿波の形勢は一変した。これを聞いた康長は、織田信長に頼んで元親を討つこととし、自ら阿波に来て康俊を説得し元親に背かせたが、本能寺の変で出兵はされた。元親は好機到来と2万3千の兵で阿波に侵入し9月に勝瑞を攻略、8月に脇城を攻略、武田信顕父子を殺し、岩倉城に向かったが城兵は頑強に抵抗したので、元親は預かっていた人質を返し和睦開場した。こうして元親は阿波全土を手に入れ叔父長宗我部親吉に守らせた。天正13年(1585)秀吉は弟秀長、甥秀次を6万の兵で四国征伐に向かわせ、蜂須賀正勝、黒田孝高も3万の兵で讃岐から応援、親吉はかなわないと見て遂に和睦開場した。
築城年代永禄年間(1558〜70)
築城主三好康永
城の現状
県道脇にある標識ここから車を置いて徒歩途中の帯曲輪岩倉城案内板
本丸への虎口本丸の城主の墓本丸倉庫?横に建つ記念碑本丸から脇町市街を望む
本丸下の帯曲輪六坊の一つ、
東の坊(観音坊)
主郭にある戦没者の墓か?堀切
主郭中央盛り上がった処が城跡真楽寺奥建物が真楽寺近辺が
六坊の一つ、北の坊
googlemap

美馬町 重清城(しげきよじょう)

城の形態山城
所在地徳島県美馬市美馬町字城
指定史跡美馬市指定史跡
規模200m×100m
歴史始めて此処に城を築いたのは、阿波国守護の小笠原長房の孫である小笠原長親である。天正6年(1577年)正月に城主小笠原豊後守長政は、白地城主大西覚養の弟で長宗我部氏に人質として送られていた大西上野介頼包と中鳥城主久米刑馬によって謀殺された。長政を殺害した大西頼包は讃岐に逃れていた兄覚養を長宗我部元親に帰順させて重清城主に迎えた。長政の嫡子長定は城を奪い返そうとして十河存保と共に3千の兵で城に押し寄せ、謀略でもって城を開場させ、覚養は大西城へ帰った。それを存保は追撃、三野町で殺害、長政の仇をとった。天正7年(1579年)長宗我部元親が大軍を率いて重清城に押し寄せ、十河存保は3千の兵と讃岐からの援軍とでこれを対峙したが敗れ、落城した。
築城年代暦応2年(1339)
築城主小笠原長親
城の現状
重清城案内虎口土塁空堀と土塁
倒壊寸前の小笠原神社庚申塔井戸本丸西の土塁
本丸土塁西の曲輪倒壊寸前の小笠原神社本丸内の倒木重清城縄張り図
googlemap

穴吹町 穴吹城(あなぶきじょう)

城の形態平城
規模70m×100m
所在地徳島県美馬市穴吹町字藪ノ下
城の歴史『阿波国郡村誌』では延元2年(1337)、「西山兵庫之助之を築き、天文21年8月、細川掃部頭真之居る処たり。天正7年12月長宗我部元親之を攻略す」とあり、『異本阿波誌』には「細川真之父持隆殺されるや勝瑞を出でて此の郷に来り・・・」とあるが西山兵庫之助の築城は伝承であり、細川真之の居城も疑問点がある。おそらく細川氏の一族が居城したものと思われる。
築城年代天文21年(1533)
築城主細川掃部頭真之
城の現状
googlemap
体育館・公民館が居館跡後ろの桃山が本丸跡

穴吹町 三谷城(みたにじょう)

城の形態平城
別名手倉城
300m×50m
所在地徳島県美馬市穴吹町三島字三谷
城の歴史城主塩田左馬助政幸は鎌倉幕府初代執権北条時政11世の孫で岩倉城主三好康俊の家老であった。天正10年(1582年)長宗我部元親の軍勢が脇・岩倉城を攻めた時、嫡子若狭守時幸と共に善戦したが敗れ、三谷城も土佐勢の攻撃で落城した。
築城年代戦国期
築城主塩田左馬助政幸
城の現状JR穴吹駅西へ約2km、正八幡神社西の上り口を登って約500mに城跡がある。丁度送電の鉄塔の真下なので分り易い、城跡らしい場所は倉庫らしい建物が建っていて、遺構らしきものは無し。
三谷城跡遠景三谷城跡南東から見る郭跡東から見る郭跡
南の崖1段低い郭跡三谷城跡きとう庵
googlemap
きとう庵正八幡神社

美馬町 中鳥城(なかとりじょう)

城の形態平城
規模70m×70m
所在地徳島県美馬市美馬町字中鳥
城の歴史天正5年(1577)、白地城を攻略した長宗我部は、次に重清豊後守長政の拠る重清城攻略に着手。同6年5月、元親の意を受けた馬路城主大西頼包は中鳥城主久米刑馬と共謀して重清豊後守父子を城内で謀殺、重清城を奪取した。城は現在美馬市西端、吉野川の川中島である中鳥島に位置する。中鳥が川中島となったのは、享保年間(1801〜1804)の大洪水によるものであり、それ以前は南岸の半田と地続きであったため、行政区分上は昭和9年までは半田に属していた。
築城年代不明
築城主浅野但馬守・久米刑馬
城の現状中鳥城が機能していた戦国期には、吉野川を挟んで対岸1kmの重清城と対峙していたが、今では享保年間(1801〜1804)の大洪水で北岸と地続きになり、まして吉野川築堤工事に伴う河道の拡幅によって、神社は北の堤防外へ移動した。
堤防上から見た
中鳥城跡(伊射奈美神社)
中鳥城跡案内板伊射奈美神社伊射奈美神社記念碑
初代城主浅野但馬守墓初代城主浅野但馬守墓(裏)歴代城主を祀る小祠中鳥渡し跡
googlemap

木屋平 森遠城(もりとおじょう)

城の形態山城
所在地徳島県美馬市木屋平字森遠
城の歴史文治元年、壇ノ浦の戦いで平家水軍の指揮を取っていた知忠は一族とこの地に隠れ、木屋平と性を改めて再起を図った。南北朝の頃、木屋平氏は阿波山分の豪族と共に南朝方の為に尽くしたが貞治2年(1363)一宮城が落城し阿波の山岳武士団の勢力は衰え木屋平氏も北朝方に降り、この付近も細川氏の勢力下に入った。その後木屋平氏は天正7年(1579)、長宗我部の誘いに応じて中富川の戦いをはじめ数度の戦いに手柄をたてた。天正10年には木屋平越前守常行が神山町に侵入、一宮成助を破って東は神山から、西は一宇村に至る地を支配した。
その後、徳島藩政時代には三代蜂須忠英は木屋平氏の名残を惜しみ、松家の性と五十石を与えて家臣の列に加えた。
築城年代文治元年(1185)
築城主平知忠
城の現状城跡は県道438号線、剣山約18k手前に標識がある。ここも重清城同様、遺構はほぼ完全な形で残されている。主郭は現在森遠八幡神社(正八幡神社)の境内になっており各曲輪や屋敷跡、井戸等も当時のままの状態で残っている。
492号線にある標識正八幡神社神社境内(主郭)城主を祀った小祠
曲輪W奥が屋敷跡標柱(字は読めない)曲輪V
googlemap
曲輪U井戸正八幡神社社殿

脇 町 城野城(じょうのじょう)

所在地徳島県美馬市脇町東赤谷名阿瀬尾
別名城ヶ丸
城の歴史伝承では、南北朝期に新田義興が築城したとされる。
城の現状
googlemap
台ヶ丸山尾根先端が城跡
(南から)
台ヶ丸山、北からの遠望登城口(町道394号)

脇 町 上野城(うえのじょう)

所在地徳島県美馬市大字猪尻字西上野
築城主北條越前守
城の現状「徳島県の中世城郭」には字西上野の民家の庭に北條越前守を祀った北條神社という小祠があるそうで土塁の痕跡もあるとのことだが、土地の人に聞き込んだが不明でした。
googlemap
城跡地付近

脇 町 塩ヶ峰城(しおがみねじょう)

所在地徳島県美馬市脇町田上
城の歴史長宗我部軍の岩倉城攻撃に際し、岩倉城の詰城あるいは見張り台とした。
城の現状岩倉城の北西約600mにある標高279mの山頂部にある。
googlemap

脇 町 城ノ坂城(しろのさかじょう)

所在地徳島県美馬市脇町字上ノ原
城の歴史通称「城ノ坂」と呼ばれる小山にある。砦か岩倉城の出城あるいは見張り台という伝承があるのみで、城主等は記述がない。
城の現状城は脇町の中央部、井口谷川の東に延びる、標高148mの尾根先端。
登山口主郭にある城ノ坂大師堂堀切か土塁
googlemap

穴吹町 南郷城(なんごうじょう)

所在地徳島県美馬市穴吹町口山初草
別名初草城
城の歴史『阿波誌』に「南郷塁、口山村に在り武田四郎兵衛此に據る」と記される。
城の現状城跡は穴吹町初草の穴吹川沿いにある。初草小学校校舎がその城跡地、運動場南にかって空堀跡があったそうだが現在は建物が建っており確認できない。
googlemap
492号線傍にある初草小学校
(南郷城跡)入口案内
初草小学校が南郷城跡

穴吹町 調子野城(ちょうしのじょう)

所在地徳島県美馬市穴吹町口山調子野
城の歴史
城の現状未登城・未訪問

穴吹町 大繁城(おおしげじょう)

所在地徳島県美馬市穴吹町三島字小島
別名小島城
城の歴史『阿波誌』では「小島村に在り、大繁某此に據る」とある。
城の現状城跡は穴吹町小島の吉野川右岸、通称「城山」と呼ばれる標高90mの尾根先端部。「徳島県の中世城郭」では、主郭と西に3段の曲輪を配する城郭だそうだが竹林の繁茂が激しく登城は断念。
googlemap
正面竹林が城跡城跡を東から(手前の小山)

美馬町 郡里城(こおさとじょう)

所在地徳島県美馬市美馬町字池ノ浦
城の歴史『阿波誌』に「郡里龍宮上島岡に源義利此に據る、芳野河に面し大白嶽を負ふ」とあり、城主は三好氏に仕え重清村西岡に居住した新田氏の流れを汲む源義利とその子の五郎衛門義信であったとされる。義信は、長宗我部の侵攻によって郡里城を捨て、讃岐に赴き十河氏に仕えた。
城の現状城跡は、美馬町の中央、旧郡里町と旧重清村との境となる鍋倉谷川右岸、大白嶽から南西に延びる標高235mの尾根頂部。
googlemap
城跡正面山頂部

木屋平 東宮城(とうぐうじょう)

所在地徳島県美馬市木屋平小日浦・名西郡神山町上分
城の歴史
城の現状未登城・未訪問

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」