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ベイシー写真館

三好市池田町 大西城(おおにしじょう)

 阿波九城(大西城)参照

池田町 白地城(はくちじょう)

城の形態山城
所在地徳島県三好市池田町白地本名
規模200m×500m
城の歴史白地城主の大西氏は田井庄の荘官近藤京帝の子孫であり、白地城は近藤氏の荘官館をその前身とするといわれる。建武3年(1336)、足利尊氏により細川和氏、頼春が阿波に派遣されると、大西氏は池田城の小笠原氏と共に南朝方として細川氏と抗争するが、康永2年(1343)小笠原氏と共に細川氏の支配下に入った。戦国期の城主は大西出雲守頼武、後に長男の覚養が後を継いだ。天正4年(1576)土佐の長宗我部元親の三好郡侵攻が始まると、覚養は早い段階で元親に降伏し、弟の頼包を人質に差し出した。翌5年侵攻が再開され元親は頼包の先導により田尾城を攻略し、白地城を攻めた。覚養は麻城(香川)に逃亡し、白地城は元親が支配、家臣の谷忠兵衛を城代に置いた。
築城年代鎌倉前期
築城主近藤京帝
城主大西覚養
城の現状現在は池田簡易保険保養センターやデイサービスセンターが建設されるなどの開発により、大きく破壊されている。現在は本丸と長月丸との段差が確認できる程度、長月丸には大西頼武を祀った大西神社がある。
阿波白地城 阿波白地城 阿波白地城 阿波白地城
白地城跡案内板「長月丸」に立つ白地城石碑「二の丸」現在保養施設「長月丸」に立つ大西神社
阿波白地城 阿波白地城 googlemap
吉野川対岸より見る白地城跡白地城縄張り図

山城町 田尾城(たおじょう)

史跡市指定史跡
城の形態平城
別名白地山城・多尾城
所在地徳島県三好市山城町黒川
規模50m×200m、標高500m
歴史最初の築城は山岳武士団の脇屋義助と呼応して小笠原頼清が築いた。その後戦国期、土佐勢の侵攻が近いということで白地城主大西覚養はいくつかの支城を設けた。その際田尾城は最も重要な最前線として修築された。天正5年(1577)3百の兵が守るこの城は十倍の土佐軍で、わずか2日で落城したが、土佐軍も多くの損害を出し、戦死者が累々と重なったといわれ「カバネの田尾」という地名が今でも残っている。
築城年代南北朝・天正年間(1573〜92)
築城主小笠原頼清・大西覚養
城主小笠原頼清・大西右京進頼信
城の現状登城口のすぐ前に土佐軍指揮所があり少し違和感があるが実際の城大手門は別の場所にあったと思われる。郭の周りは土塁を築きまたその周りは毛抜堀、片薬研堀、畝堀、竪堀があり、搦め手となっていた。ここを長宗我部軍は3千の兵で落とそうと試みたが、力では落とせないとみた長宗我部軍は山に火を放ちたまらず落城したので白米伝説がある。
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城
田尾城遠望登城口田尾城解説板古戦場田尾城跡標柱
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城
険しい登坂道が延々と続く堀切り堀堀上の太鼓橋田尾城への旧道
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城
逆茂木狭間のある土塀
勿論最近作られたもの
山頂の本丸跡
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城
本丸周囲の土塁(芝土居)土塁本丸跡にある祠搦(からめ)手方面の堀配置図
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城
町名(山城町)発祥の地
山岳武士発祥の地
長宗我部軍最前線指揮所戦死者を祀る祠竹束盾
阿波田尾城 阿波田尾城 阿波田尾城 googlemap
虎落(もがり)戦死者を偲ぶ句国道319号線脇の標識

池田町 馬路城(うまじじょう)

城の形態平山城
別名西岡城
規模150m×100m
所在地徳島県三好市池田町馬路字西岡
城の歴史馬路城主大西頼包は白地城主大西覚養の弟。天正4年三好郡に侵攻した長宗我部に対し、覚養は頼包を人質として長宗我部方となった。しかし、まもなく覚養は三好方に寝返りこれを機に長宗我部の侵攻が再開された。その先導を努めたのが頼包であった。頼包は覚養が麻城(香川県)に落ち延びたあと本領を安堵され、馬路城に入った。
築城年代戦国期
築城主大西上野介頼包
城の現状徳島自動車道建設のため、城跡が分断されていて、城跡への連絡橋が架けられているがフェンスで立入禁止になっていて城跡へは踏み込めず。
阿波馬路城 阿波馬路城 阿波馬路城 阿波馬路城
西岡(馬路)城跡石碑連絡橋に架かる馬路城橋馬路城橋城跡の西岡(馬路)城跡石碑
阿波馬路城 googlemap
連絡橋入口部分

池田町 大利城(おおりじょう)

城の形態山城
別名折城
所在地徳島県三好市池田町大利字西岡
城の歴史天正5年(1577)、長宗我部軍の田尾城攻略により白地城大西覚養は讃岐麻城へ逃亡した。白地城へ入城した長宗我部軍は続いて中西城、漆川城を攻略、大利城へ向かい、大西石見守は石堂峠で迎え撃ち、城兵共々討ち死にした。
築城年代永禄元年(1558)
築城主大西石見守
城の現状未登城・未訪問

池田町 川崎城(かわさきじょう)

城の形態山城
規模70m×70m
所在地徳島県三好市池田町
城の歴史白地城に拠る大西覚養が長宗我部の侵攻に対処するため、土佐の街道筋に設けた支城の一つ。
築城年代戦国期
築城主越前守某
城の現状未登城・未訪問

池田町 佐野城(さのじょう)

城の形態山城
所在地徳島県三好市池田町高毛
城の歴史城跡の場所は伊予街道と讃岐へ通じる交通の要所、藩政期は近隣に佐野口番所や佐野口御分一所が置かれた。
築城年代戦国末期
築城主不明
主な城主佐野丹後守
城の現状未登城・未訪問

池田町 漆川城(しつかわじょう)

城の形態平館
別名志津川城
所在地徳島県三好市池田町漆川字坊谷
城の歴史漆川城は白地城の支城の一つ、城主大西頼春は白地城主大西頼武の次男で、馬岡で長宗我部軍と戦って戦死。
築城年代戦国末期
築城主大西左衛門尉
城の現状未登城・未訪問

池田町 中西城(なかにしじょう)

城の形態山城
所在地徳島県三好市池田町中西サルガワ
規模15m×25m
城の歴史白地城の出丸として、祖谷口の押さえとして東条隠岐守に守らせたが、天正5年(1577)の長宗我部軍の侵攻により落城。
築城年代天正年間(1573〜92)
築城主白地城大西頼武
主な城主東条隠岐守
城の現状未登城・未訪問

井川町 八石城(やついしじょう)

城の形態山城
所在地徳島県三好市井川町井内西
城の史跡井川町史跡
規模30m×40m、標高780m
歴史暦応2年(延元4、1339)御醍後天皇が亡くなった後、後村上天皇は康永元年(興国3、1342)脇屋義助を四国西国大将軍として伊予に派遣したが上陸後すぐ急死してしまうが、義助の子義治も出羽の戦いに敗れ父ゆかりの伊予に上陸後、さらに逃れてこの八石にやって来た。そして山岳に籠もって南朝方のために戦ったが庚暦2年(天授6、1380)祖谷地方の菅生氏、西山氏の北朝向を最後に阿波南朝方の活動は終わりをつげた。
築城年代南北朝期
築城主新田(脇屋)義治
城の現状井川町井内西の標高810mの山頂に城跡がある。城跡には井川町教委が建てた石碑があり、主郭、空堀等比較的保存状態は良い。八ツ石の起源であるように、城跡一帯は巨石があちこちに剥き出しである。麓には新田義治を祀る馬岡新田神社がある。
八石城 八石城 八石城 八石城
7号目付近の案内駐車場からの登城口鳥居八ツ石城跡案内三好市指定文化財標柱
八石城 八石城 八石城 八石城
碗貸石八ツ石城跡石板碗貸塚
八石城 八石城 八石城 八石城
主郭跡土塁空堀横堀と竪堀
八石城 八石城 八石城 八石城
空堀土塁と堀跡馬岡新田神社馬岡新田神社
八石城 八石城 googlemap
馬岡新田神社の大杉馬岡新田神社の大杉

井川町 山下城(やましたじょう)

城の形態山城
所在地徳島県三好市井川町西井川
規模100m×50m
築城主新田隼人亮
山下城 googlemap
山下城遠景

池田町 州津城(しゅうつじょう)

所在地徳島県三好市池田町州津
別名多子・田子城
城の歴史延元2年(1337)に讃岐本篠城で南朝方が挙兵した時、小笠原義盛が築城したという説がある。
州津城 州津城 googlemap
山の頂部が城跡千尋衣神社の北の丘陵部

池田町 太鼓山城(たいこやまじょう)

所在地徳島県三好市池田町白地字本名
城の歴史白地城の大西氏が有事の際に太鼓で白地城に合図を送った出城。
城の現状未登城・未訪問

池田町 天神城(てんじんじょう)

所在地徳島県三好市池田町大利字大田
城の歴史白地城の大西氏が長宗我部氏の侵攻に備えて、祖谷口防禦の詰城として築いた。
城の現状『三縄村史』に白地城主の大西氏が長宗我部氏の侵攻に備え、祖谷口防御の詰城として築いたとされるが、曲輪は非常に狭く兵の駐屯は困難である。本城との狼煙場、見張り台と思われる。
天神城 googlemap
左山の山頂部が城跡

山城町 振越城(ふりこしじょう)

所在地徳島県三好市山城町下名南日浦
城の歴史
城の現状未登城・未訪問

西祖谷 有瀬城(あるせじょう)

所在地徳島県三好市西祖谷有瀬上
城の歴史西祖谷有瀬は高知県大豊町との境にあり藩政期には有瀬口番所が置かれた。戦国期には有瀬右京進が大西氏の配下として国境の守りを固めた。
城の現状城跡の標高は780m、ほぼ高知県との境に位置する。手前の旧有瀬小学校に藩政期に置かれた有瀬口番所がある。山の頂上に八幡神社があり、その境内が城跡である。遺構の保存状態は良好である。
th>2段目の曲輪の石垣th>雨乞いの老杉
有瀬城 有瀬城 有瀬城 有瀬城
城跡の八幡神社主郭に建つ八幡神社
googlemap

井川町 西井内谷城(にしいのうちだにじょう)

所在地徳島県三好市井川町西井内字梶内
城の歴史詳細不明
城の現状未登城・未訪問

井川町 井内谷東城(いのうちだにひがしじょう)

所在地徳島県三好市井川町井内東
城の歴史東城として新田義治の築いた八石城の詰城。
城の現状未登城・未訪問

井川町 天神山城(てんじんやまじょう)

所在地徳島県三好市井川町知行
城の歴史天神山城跡は井川町知行の井川谷川を臨む標高400mの尾根頂部にある。地元では新田(脇屋)義治の本城とも伝えられているが詳しいことは不明。
城の現状未登城・未訪問

井川町 東城(ひがしじょう)

所在地徳島県三好市井川町井内東
城の歴史八石城と同じ新田(脇屋)義治の築城と伝えられている。伝承地は金丸城跡から北の尾根続きに1kmの地点の標高1058mの山頂部。
城の現状未登城・未訪問

井川町 野津後城(のつごじょう)

所在地徳島県三好市井川町御領田
城主新田武蔵守
城の歴史『阿波誌』では野津後城は、新田義治の子孫の源元武が拠ったとされ、『三好郡村誌』では城主を新田武蔵守とされている。
城の現状JR徳島本線、辻駅東の辻高校運動場がその城跡、辻高校のJR線路をはさんで北側が居館跡であり、辻駅の南西250mの山裾に飯裹神社がありその裏山にも山城があったらしい。
阿波野津後城 阿波野津後城 阿波野津後城 阿波野津後城
野津後城山城
手前右はJR辻駅
飯裹神社
裏山が山城
野津後城縄張り図辻高校北のグラウンドが
野津後城居館跡
googlemap

三野町 清水城(しみずじょう)

所在地徳島県三好市三野町清水字上野幸
城の歴史弘仁5年(814)国司山田古嗣に仕えた。敵対する麓の山田城めがけて火牛を放ち落城させたという火牛伝説がある。
城主馬場秋胤
清水城 googlemap
手前平地が城跡

三野町 田中城(たなかじょう)

所在地徳島県三好市三野町
城の歴史東方の清水城から火牛を放って田中城が全滅したとの伝説がある
田中城 googlemap
家屋密集地が城跡

三野町 加茂野宮城(かものみやじょう)

所在地徳島県三好市三野町加茂宮字戎
主な城主田村左近守利春
城の歴史城跡は平成3年頃までは戎塚と呼ばれていたが、現在は平地となって、田村左近守利春の碑と戎神社が祀られている。『三野町誌』では天正13年(1585)姉川合戦に敗れた田村左近守利春が、ここへ落ち延び百姓になったとある。
城の現状平成3年頃まではこのあたりは戎塚と呼ばれこんもりと盛り上がった丘であったが現在は平地となって三野町が建てた戎神社と城主の墓がある。
阿波加茂野宮城跡 阿波加茂野宮城跡 阿波加茂野宮城跡 阿波加茂野宮城跡
加茂野宮城跡加茂野宮城標柱戎神社と田村左近守利春墓田村左近守利春墓
阿波加茂野宮城跡 googlemap
加茂野宮城標柱裏

三野町 館山城(やかたやまじょう)

所在地徳島県三好市三野町
別名屋形山城・天王山城
城の歴史『阿波古城記』では山井肥後守の居城となっているが、他の史料では書いてないので、詳細は不明。
城の現状館山は、従来サヌカイト製石鏃や弥生土器の散布地として知られる県の埋蔵文化財包蔵地である。標高150mの尾根山頂には館山神社があり、神社が本丸にあたるとの事で登ってみたが中腹の太陽光発電施設までは登れたが、そこからが道も途切れて登れないので断念。
阿波館山城跡 阿波館山城跡 googlemap
館山城遠景(南より)館山遺跡標柱

三野町 芝生城(しぼうじょう)

所在地徳島県三好市三野町芝生
城の歴史『阿波誌』では、三好之長・元長が拠った城であるとされ、これによって芝生城が三好氏発祥の地とする説がある。城跡は三好市三野町の吉野川左岸の標高81mの段丘先端になる。
城の現状案内の看板があるのみで遺構は何も無いが、立地は南が崖で分り易い。
阿波芝生城 阿波芝生城 阿波芝生城 阿波芝生城
県道入口にある案内芝生城芝生城城跡奥の竹薮の向こうは崖
googlemap

池田町 源氏岡(げんじおか)

所在地徳島県三好市池田町馬路字源氏岡
城の歴史馬路川左岸、雲辺寺山から南西に延びる標高250mの尾根先端。城跡には大西備中守、西岡丹後守、柳生与三兵衛の塚がある。馬路城の出城。
城の現状馬路川左岸、馬路城から西へ約1kmの場所、ここもやはり高速道の建設により分断されている。
阿波源氏岡 阿波源氏岡 阿波源氏岡 googlemap
城跡、高速道対面から城跡、高速道対面から城跡

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」