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ベイシー写真館

■徳島県の他の古城跡

瀬戸町 撫養城(むやじょう)

 阿波九城(撫養城)参照

鳴門町 土佐泊城(とさどまりじょう)

城の形態平山城
史跡市指定
所在地徳島県鳴門市土佐泊浦字土佐泊・字高砂
城の歴史蜂須賀家に代々仕えた阿波の水軍森家の城である。初代元村は天文年間に讃岐の兵が攻め入った時に打ち破り名を挙げた。ついで天文8年細川勝元が伊予の河野通世と戦った時、元村は水軍を率いてこれも勝利を収めた。その後子村春が跡を継ぎ森家水軍の基礎を固めた。
築城年代天正年間(1573〜92)
築城主森筑後守元村
主な城主森志摩守(改名)元村・森志摩守村春
城の現状新城のある松瀬山へ登るには麓の南海病院の敷地を通らなければならず許可を求めたが下りませんでした。従って写真は松瀬山の遠景のみ。帰りに麓の紀貫之の「土佐日記」で有名な潮明寺に寄り、また小宰相局の墓にも立ち寄りました。
対岸の岡崎海岸から見る土佐泊城のあった松瀬山、頂上に新城、左に古城、右端の小高いところに遠見番所があった森志摩守元村の墓潮明寺紀貫之の碑
森志摩守元村の墓
(阿南椿泊、道明寺)
小宰相局の墓、夫の平家の平通盛が源氏との一の谷で討死したと聞き、ここ土佐泊で身を投げ19才の生涯を閉じた。

撫養町 木津城(きずじょう)

城の形態平山城
史跡市指定
所在地徳島県鳴門市撫養町木津字城山
規模180m×300m
歴史篠原自遁は主君勝瑞城三好義賢没後の妻小少将との醜聞やその後の上桜合戦での篠原長房の滅亡に至る事件の首謀者とされ、その評判は良くない。その後自遁は、新たに勝瑞城主となった十河存保に従ったが、天正8年(1580)長宗我部に侵攻された存保が讃岐に退き一宮成助が勝瑞を占拠すると自遁はこれに同調し木津城に留まった。しかし長宗我部が阿波を制圧すると自遁は開城して淡路へと退去、元親は土佐方に帰順した桑野城主東条関之兵衛を城の守備にあたらせた。天正13年(1585)秀吉は秀長を総大将に11万の大軍で四国侵攻しまず木津城の攻撃を開始、この攻撃には蜂須賀正勝・家政父子が参加、城は堅固を誇ったが最終的には水を抑えられ東条関之兵衛は降伏した。
築城年代永禄年間(1558〜70)
築城主篠原備前守入道自遁
城の現状城跡すぐ南に撫養街道が走り、約64mの丘陵にあるが現在は丘陵の周りは柵があり上へは登れない。以前は頂上は産廃の処理場があったし、現在は上水道排水池があるそう。城山西に木津城山公園が整備されている。
公園から見た城山公園工事標柱公園内山腹に石垣が
北から見た城山南から見た城山

撫養町 中山城(なかやまじょう)

城の形態平城
所在地徳島県鳴門市撫養町木津字中山
城の歴史勝瑞城の外城で斎藤若狭守が居城。地理的には瀬戸と木津を結ぶ重要な要害。
築城年代天正年間(1573〜92)
築城主斎藤若狭守
城の現状このあたりは岩石採取で消滅している尾根も多く場所の特定は出来てないそうです。
中山池、上を走るのは
国道11号線
池の北端が城跡
(特定ではないそうです)
GoogleMapで開きます

撫養町 林崎城(はやさきじょう)

城の形態平城
規模150m×100m
所在地徳島県鳴門市撫養町岡崎
城の歴史戦国時代に四宮加賀守が拠り中富川の合戦で戦死、撫養城の支城。大永3年(1523)に室町幕府十代将軍の足利義稙が撫養で客死されたとされ、十四代将軍も織田信長に京を追われここで没した。
築城年代永禄・天正年間(1573〜92)
築城主四宮加賀守・同左近大夫(兄弟)
城の現状撫養城・岡崎城と同一城

大麻町 姫田城(ひめだじょう)

城の形態平城
所在地徳島県鳴門市大麻町姫田字半状・字大森
城の歴史城主は姫田弾正藤家でのち佐渡守と改めた。小笠原源氏で、紋は松皮臥籠で三十貫を所領。勝瑞城の外城で、天正5年(1577)三好長治の後を追って自害した。一族の甚左衛門は天正10年(1582)中富川の合戦で討死、城も落ちた。
築城主姫田佐渡守藤家
城の現状大麻町葛城神社裏一帯が城跡といわれている。神社北東約200m程の場所に地元の有志が建てた姫田城の祠・石柱がある神社には古い小祠があるが詳しくは不明である。
姫田城地元の有志が建てた姫田城祠姫田城石柱葛城神社
神社内の古い祠城跡といわれる神社の裏庚申塔

大麻町 土井城(どいじょう)

城の形態平城
別名毛利兵橘屋敷跡
所在地徳島県鳴門市大麻町松村字土井
城の歴史元は勝瑞城の外城であった。天正13年(1585)羽柴秀吉の四国攻略により長宗我部は土佐一国を安堵され、阿波から退去。秀吉は蜂須賀家正に阿波一国を与えたが、内1万石は赤松次郎則房に藍住を与え置塩領とし、千石余を毛利兵橘に与え、毛利兵橘領とした兵橘領は板東郡の川崎、三俣であった。しかし関が原の役では西軍に味方し領知は没収され蜂須賀氏のものとなった。
築城年代不明
築城主毛利兵橘
城の現状JR池谷駅東南約1kの田圃の中が城跡らしい。遺構は堀の残欠と思われる水路が東西に訳50m残るのみ。
土井城跡堀の残欠

大麻町 保崎城(ほざきじょう)

城の形態平城
所在地徳島県鳴門市大麻町大谷字帆崎
城の歴史勝瑞城の外城で、馬詰・中村にあった馬詰駿河守が大麻大谷の地に築いた。その子三四郎は天正10年(1582)中富川の合戦で戦死。本性小笠原氏、紋は松皮菱に竹ノ丸。
築城年代元禄・元亀年間(1558〜73)
築城主馬詰駿河守
城の現状
保崎城跡保崎城跡

大麻町 板東城(ばんどうじょう)

城の形態山城
別名丸山塁
所在地徳島県鳴門市大麻町板東字
城の歴史勝瑞城の外城で、『板野郡誌』に「大麻比古神社の西の丘に城塁があった」と記されている。城主は天正10年(1582)中富川の合戦で討死した。
築城年代不明
築城主板東肥前守
城の現状大麻比古神社の西41号線をはさんで西側の小高い山の頂上が城跡らしい。この山非常に猿が多そうなので登るのは断念(現に少しの間に2回目撃)。
この山の頂上が城跡
大麻比古神社駐車場より写す
山の北側の登城口

大麻町 野口城(のぐちじょう)

城の形態平城
別名野中塁
所在地徳島県鳴門市大麻町松村字竹添
城の歴史勝瑞城の外城で、『阿波誌』では「野中塁、松村野口里にあり」、『故城記』には「野中殿 小笠原源氏、松皮ニ竹ノ丸」とあるがそれ以上のことは不明だそう。
築城年代天正年間(1573〜92)
築城主源氏某・野中某
城の現状土井城の南、約300mが城跡、今は農家の宅地が密集していて遺構は無し。
住宅密集地が城跡です。

大津町 大代城(おおしろじょう)

城の形態平城
所在地徳島県鳴門市大津町大代字宮代
歴史城主の大代掃部介は木津城篠原自遁の妹婿、中富川の合戦で掃部介の子内匠が討ち死。天正6年木津城に拠る篠原自遁は勝瑞城の十河存保に対し一戦を望んだ時、十河陣営が大代城を陣所に求めた。
築城年代天正年間(1573〜92)
築城主大代掃部介
城の現状城跡は『板野郡村誌』によれば大代町の加久美神社にあったとされる。北西約200m程の竹薮に古い五輪塔がある。
加久美神社加久美神社五輪塔の残欠北西にある古い五輪塔

大麻町 里城(さとじょう)

所在地徳島県鳴門市
歴史
城の現状12号線と北灘方面櫛木へ抜ける交差点から東へ約300mの道路の南側が城跡らしい、遺構は無し。
12号線の向こう(南)が城跡

大津町 段関城(だんぜきじょう)

所在地徳島県鳴門市大津町段関
築城主森志摩守村春
歴史勝瑞城の外城として土佐泊城主森志摩守村春が永禄年間に城下町を形成していたが、所在地は不明。天正13年(1585)羽柴秀吉の命で土佐泊城を明け渡して段関に入り、翌年椿泊に移った。
城の現状現在この辺りはレンコン畑ばかり、遺構はなし。
水田が段関城跡です

里浦町 里浦城(さとうらじょう)

所在地徳島県鳴門市里浦町字平松
歴史
城の現状
大手海岸より、左側の高い山(標高86m)の頂上が城跡

瀬戸町 北泊城(きたどまりじょう)

所在地徳島県鳴門市瀬戸町字北泊
築城主四宮和泉守
歴史藩政期には北泊役所や川口番所、遠見番所が置かれ撫養から瀬戸内海へ抜ける船舶の監視を行っていた。
山上が城跡か善光寺

北灘町 櫛木城(くしきじょう)

所在地徳島県鳴門市北灘町櫛木
歴史『阿波志』に櫛木某と記載されている以外、詳しいことは不明。
櫛木城跡櫛木城跡

大麻町 川崎城(かわさきじょう)

所在地徳島県鳴門市大麻町川崎字城ノ内
歴史城主等、詳しいことは不明。
城の現状城跡は田畑の中、城跡の位置は現在「城ノ内」や「城ノ前」「城ノ東」「堀ノ内」等の地名が残っている。北東西の3方向に狭い用水路が巡っているが当時は7m程の濠跡だったそう。
城ノ内の東から北西城ノ内の北から南GoogleMapで開きます

大麻町 葛城峰の台(かつらぎみねのだい)

所在地徳島県鳴門市大麻町大谷字東山谷
歴史
城の現状
葛城峰の台葛城峰の台麓の大きな池

鳴門市 長塩城(ながしおじょう)

所在地徳島県鳴門市
歴史『古将記』に「長塩城」とある以外、近世地誌類に記述はないとのこと。城主の長塩六之進は中富川の合戦で討ち死に。
城の現状城跡地は不明

鳴門市 野本城(のもとじょう)

所在地徳島県鳴門市
歴史『古将記』に「野本城」とある以外、近世地誌類に記述はないとのこと。城主の野本左近は中富川の合戦で討ち死に。
城の現状城跡地は不明

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」