大永5年(1525年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) - 1524年(大永4年)築城したと思われる。亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570)の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城とした。天正元年(1573、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉の調略に乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。畿内一帯に嵐が襲来した。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた。信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した。
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別名 | 小谷城 |
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城郭構造 | 梯郭式山城 |
天守構造 | 二層の天守が推定される |
築城主 | 浅井亮政 |
築城年 | 1513年(永正13年) |
主な城主 | 浅井氏・羽柴氏 |
廃城年 | 1575年(天正3年) |
遺構 | 曲輪、石垣、堀切、土塁、竪堀、礎石、虎口 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | なし |
初代 | 二代 | 三代 | 四代 |
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浅井克政 | 浅井久政 | 浅井長政 | 羽柴秀吉 |
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