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ベイシー写真館

■徳島県の他の古城跡

徳島市(その2) 名東城(みょうどうじょう)

平山城
別名経ヶ丸城・川越城
所在地徳島市名東町2丁目
50m×80m
鎌田兵衛尉光久は永禄5年(1562)に和泉の久米田の戦いで戦死したあと、その子修理輔光康が2代目なったが天正7年(1579)に長宗我部や一宮勢と戦い、戦死。3代目の久馬右衛門光義は同10年に中富川の合戦で戦死。家系は藤原氏。
天文13年(1544)
鎌田兵衛尉光久
鎌田兵衛尉光・鎌田修理輔光康・鎌田久馬右衛門光義
名東町地蔵院西の経ヶ丸山先端の標高40mの丸山にあった、城としては非常に好適な立地である。城跡の東の地蔵越えは眉山の北と南を結ぶ主要な峠道で遍路道でもある。北の諏訪神社口から中腹まで登ったがそれから上は猪がよく出没すると地元の方に聞かされていたので中止。
経ヶ丸山の先端、丸山
手前の平らな丘が城跡
丸山北側の登り口
諏訪神社の参拝口
諏訪神社の祠石垣が少し残っています
東側から見た丸山
手前の池は地蔵院池
地蔵院池は昔は濠の役目
だったのかも

徳島市 新居城(にいじょう)

城の形態平城
所在地徳島市不動西町4丁目
城の歴史城主赤沢鹿之丞は、板西城主赤沢信濃守入道宗伝の一家老で、同城の12人衆第一と言われていた。家系は小笠原源氏。
築城年代不明
築城主赤沢鹿之丞
城の現状神社の廻りは特に遺構らしきものは無し、唯一神社裏に相当に古い祠があるが「大系」では触れられていないので関係ないのかも。
八幡神社付近だと思われる神社裏に祀られる祠

徳島市 井戸城(いどじょう)

城の形態平城
別名薬師寺城・城乃内城
所在地徳島市国府町井戸
規模180m×300m
歴史薬師寺阿波守政村は、承久の乱後、武蔵の国府(現在の東京府中市)から入国した。城の面積は540aの広さで相当大きな城だったことが伺える。
築城年代承久3年(1221)頃
築城主薬師寺阿波守政村
城の現状四国八十八番札所井戸寺の南南西の字城ノ内が城跡、城跡は現在水田や宅地で遺構は城主を祀る祠があるのみ。
城主を祀る小祠

徳島市 芝原城(しばはらじょう)

城の形態平城
規模150m×100m
所在地徳島県徳島市国府町芝原
城の歴史久米安芸守義弘は佐野塚城主佐野丹波守平明と仲が良く、天文22年(1553)の春、義広や野田山城主野田内蔵助・英城主仁木高将・蔵本城主小倉重信らと、主君細川持隆を討った三好義賢に対する弔い合戦の槍場の合戦で討死した。
築城年代天文年間(1532〜55)
築城主久米安芸守義弘
城の現状城跡は国府町芝原の八幡神社と隣の蔵珠院というお寺の付近一体、両方とも相当大きな社と寺院で、いかにも古くて由緒ある感じです。
八幡神社蔵珠院蔵珠院の栄螺の泉、地面を
螺旋状に直掘りで掘り下げた珍しい井戸です

徳島市 芝原西城(しばはらにしじょう)

城の形態平城
所在地徳島県徳島市国府町芝原
城の歴史徳島市国府町芝原の五郷地神社付近が城跡といわれている。家系は藤原氏。
築城年代不明
築城主菅藤豊後守康政
城の現状城跡は石井竜王団地すぐの観音堂地区、五郷司神社のこのあたりが城跡だそうです。
五郷司神社神社裏の鎌倉〜南北朝期の五輪塔、この時代の五輪塔としては市内最大。神社裏の小祠神社裏の小祠

徳島市 観音寺城(かんのんじじょう)

城の形態平城
規模70m×70m
所在地徳島県徳島市国府町観音寺
城の歴史天正10年(1582)長宗我部元親が諸将を誘い出して次々と殺していった時、板東市正は病と偽って逃げ帰った。そして子孫は帰農したといわれている。
築城年代不明
築城主板東市正
城の現状国府町観音寺の舌洗池(別称、勝間池)の東一体が城跡だそう。
舌洗池(勝間池)舌洗池、池の向こう(東側)が城があった場所城には関係ないが
観音寺遺跡の案内板
祠がありました
義経伝説興味がある方は拡大してご覧ください

徳島市 府中城(こうじょう)

城の形態平城
別名海部城・尼木城
所在地徳島県徳島市国府町尼木
城の歴史『阿波誌』では府中城跡は大御和神社北側の旧字城ノ内とされているが確証は無いとのこと。
築城年代戦国期
築城主源義近
城の現状大御和神社北側はすべて住宅や商店で遺構はなし。
大御和神社大鳥居大御和神社堀らしき?

徳島市 佐田館(さだやかた)

城の形態平館
所在地徳島県徳島市国府町黒田
城の歴史館主佐田九郎衛門は因幡の人で、土佐泊城主森志摩守元村で兵法に通じて松永久秀に兵法を伝授したこともあった。
築城年代天文年間(1532〜55)
築城主佐田九郎衛門
城の現状館跡は黒田の西とのことだが不明

徳島市 高輪城(たこうじょう)

城の形態平城
所在地徳島県徳島市国府町高輪
城の歴史『古将記』では、城主高輪出羽守幸内は板西城主赤澤信濃守宗伝の12人衆の1人として板西に常駐、留守は粟飯原平之丞・石川六之丞が守っていた。『阿波誌』では高輪出雲守一存が城主。
築城年代永禄年間(1558〜70)
築城主高輪出羽守幸内
主な城主粟飯原平之丞
城の現状槍場の合戦の古戦場の近く東高輪の西端秋葉神社の近辺が城跡らしい、付近に高輪出羽守の墓の五輪塔火輪があるとのことで探したが不明。
秋葉神社

徳島市 佐野須賀城(さのずかじょう)

城の形態平城
所在地徳島県徳島市国府町佐野塚
歴史佐野丹波守平明は芝原城主久米安芸守義広と仲が良く、天文22年(1553)の春、義広や野田山城主野田内蔵助・英城主仁木高将・蔵本城主小倉重信らと、主君細川持隆を討った三好義賢に対する弔い合戦の槍場の合戦で討死した。
築城年代不明
築城主佐野丹波守平明
城の現状城跡の大部分は昭和11年の吉野川築堤工事により削り取られているそう。
吉野川堤防上の佐野塚の
掲示板
堤防上から佐野塚を望む
手前が天満神社
佐野塚、天満神社右が玉善寺の六地蔵石鐘
佐野丹波守平明の墓

徳島市 矢野城(やのじょう)

城の形態平山城
所在地徳島県徳島市国府町矢野
規模100m×50m
城の歴史矢野駿河守国村は、讃岐大川の虎丸城主を兼ねていたが、
天正7年(1579)脇城外で戦死した。
築城年代永禄年間(1558〜70)
築城主矢野駿河守国村
城の現状山頂にある石柱や城山神社は地元出身の高松マルヨシセンターの社長が私財で建てたとの事。
県道脇の標識途中3差路なので案内標識頂上の城山神社矢野城跡の石板
農兵活躍史室町幕府第十四代将軍擁立山頂にある祠日本最初のクリスマス
麓から見た城山山頂へ行く途中の城山
気延山古墳群

徳島市 花園城(はなぞのじょう)

城の形態平城
別名斎田城
所在地徳島県徳島市国府町花園
城の歴史『平家物語』巻九「六ヶ度軍」に、元暦元年(1184)、平通盛は催促に応じない伊予国の河野通信を攻撃するため阿波国花園城へ入ったと語られるが、それ以降の花園城についての史料は無く、源平争乱の後は廃絶していたらしい。
築城年代寿永2年(1183)
築城主平通盛
城の現状「花園城」の比定地である春日祠(現諏訪神社)周辺と想像されるが確証ではないとのこと。
諏訪神社

徳島市 早淵城(はやぶちじょう)

城の形態平城
所在地徳島県徳島市国府町早淵
規模58m×49m
城の歴史永禄5年(1562)、城主早淵主馬亮は、和泉の久米田(岸和田)の戦いで戦死した。
築城年代不明
築城主早淵頼母亮
主な城主早淵主馬亮
城の現状鮎喰橋西岸を500m程南に行って堤防を下った右が城域、この辺りの地名が字城ノ内で、城ノ内南一帯の畑が城跡となっている。
城跡一帯を見る城主を祀った小祠鮎喰堤防上より城跡を見る

徳島市 日開城(ひがいじょう)

城の形態平城
別名日開野城
所在地徳島県徳島市国府町日開
規模55m×55m
城の歴史城主鎌田采女正安正は、家系は藤原氏。のち名東城主鎌田久馬右衛門が城主を兼ねた。『阿波誌』では、城主は鎌田右近安次としている。
築城年代不明
築城主鎌田采女正安正
城の現状「徳島県の中世城館」によると城跡の周辺に城主を祀った祠や70mの土塁、板碑、戦死者の塚等があったそうだが確認できたのは祠のみ。
日開にある城主の祠
西から見た遠景
城主の小祠

徳島市 和田城(わだじょう)

城の形態平城
別名小川城
所在地徳島県徳島市国府町和田
規模56m×136m
城の歴史城主和田株太夫は、一宮城主一宮長門守成助の幕下として天正9年(1581)9月、黒田(国府町)の戦いで土佐方と戦い戦死。家系は武田源氏。
築城年代戦国期
築城主和田株太夫
城の現状JR府中駅より東へ約600m線路際の畑の中に城主を祀った祠がある遺構はそれのみ、
周りは全て宅地や畑。
城主を祀った小祠

徳島市 渋野城(しぶのじょう)

城の形態平山城
所在地徳島県徳島市渋野町入道
城の歴史新開右京進兼安は牛岐(富岡)城主新開遠江守忠之の一族、家系は平氏。
築城年代不明
築城主新開右京進兼安
城の現状城跡は徳島動植物園の南に位置する標高約50mの尾根南先端である。「徳島県の中世城館」によれば約42mの頂上にははっきりと主郭が確認できるとの事だが、雑木の繁茂が激しく登るのは断念。
渋野城遠景(西より)入道溜池

徳島市 宮井城(みやいじょう)

城の形態平城
所在地徳島県徳島市多家良町小路地
城の歴史「徳島県の中世城館」によると宮井小学校の地は里城で本城は、その上の大匠寺山にあったといわれている。城主麻植遠江守の家系は小笠原源氏で紋は丸の内に松皮菱、知行は千四百貫であった。天正年間に落城。
城主麻植遠江守
城の現状城跡の現在は全て宮井小学校の敷地内で立ち入り不可。
宮井小学校宮井小学校

徳島市 芝山城(しばやまじょう)

城の形態平山城
別名千代ヶ丸城
所在地徳島県徳島市大原町千代ヶ丸山
城の歴史『阿波誌』によると城主の小命藤政は大原町小御子(現在の小神子)に居館があったとされ、城から日峰山をはさんで3kも離れているので城主としての疑問点も多いそう。
築城年代戦国期
築城主小命(こみこ)藤政
城の現状写真は芝山であるが城跡とされるのは写真の左に千代ヶ丸山であるが現在は、ほとんど削平されて原型をとどめない。
写真は芝山、千代ヶ丸山は宅地やゴルフ場が密集している

徳島市 高田館(たかたかん)

城の形態平館
所在地徳島県徳島市大松町
城の歴史不明
築城年代永禄年間(1558〜70)
築城主高田綱清
城の現状未登城

徳島市 熊山城(くまやまじょう)

城の形態平山城
別名桜間城・本庄城
所在地徳島県徳島市丈六町
規模180m×120m
城の歴史源平時代に桜間城、戦国時代は本庄城といわれた。文治元年(1185)源義経が屋島の平氏を倒すため、阿波の小松島に上陸来攻した際、まず最初にこの城を攻め落としたといわれている。時代が代わって細川・三好時代に本庄太郎兵衛国兼が再び築城し熊山城と称した。
築城年代寿永年間(1183〜85)
築城主桜庭介良遠
桜庭介良遠・本庄太郎兵衛国兼
城の現状40m前後の小山だが、周りに登る道がないので登城は諦めました。すぐ東を通るJRの保線のために山は相当削られた模様。山のまわりに遺構は無し。
城跡とされる熊山熊山義経上陸地「勢合」

徳島市 田林寺営(勝浦城)(でんりんじえい)

城の形態山城
所在地徳島県徳島市丈六町行正
城の歴史熊山城の里城、田口成良の弟、桜庭外記太夫紀能遠之が此処に拠り、源義経に攻められ落城、後に城跡に寺を建て桜間山田林寺とした。
築城主桜庭外記太夫紀能遠之
城の現状城跡に建つ田林寺は今も残っており、住職さんに話伺うと、周りは全て住宅地になっており、遺構は無く寺と墓地のみ残っているとの事。
田林寺田林寺源義経騎馬像

徳島市 中津峰城(なかつみねじょう)

城の形態山城
別名宮井城・若松城
所在地徳島県徳島市多家良町
規模不明
城の歴史承久の乱後、新田義兼の孫岩松時兼がここに移り住んだ。時兼は建武2年(1335)中先代の乱で戦死、観応2年(1351)北朝方の細川頼之が南朝方最後の拠点のこの城を攻め落とし、残る岩松一族郎党は中津峰如意輪寺に立て篭もり、最後の一戦(中津峰合戦)で全滅。
築城年代不明
築城主岩松時兼
城の現状城跡は中津峰山の麓から約1kmの県道右側で非常に急峻な場所にある。登城は諦めて、岩松一族が最後の決戦で立て篭もり全滅した如意輪寺へ。
中津峰山遠景(北より)如意輪寺如意輪寺

徳島市 八多城(はたじょう)

城の形態山城
別名亭ヶ丸(ちんがまる)
所在地徳島県徳島市多家良町
城の歴史宮井城の亭園という子城とか、阿波民部、田口成良の居城とか、義経が攻撃した熊山城の詰城とか、或いは南北朝期の中津峰合戦で南朝方が使用した城郭とか色んな説がある。江戸時代では藩主蜂須賀氏の狩り場だったとされ、「殿様山」とも呼ばれていた。
城主田口成良か?
城の現状「徳島の中世城館」では遺構の保存状態は良好であるとのことだが、麓から見上げる山容はピラミッド形で、急傾斜の登坂になりそうなので断念。

徳島市 津田砲台場(つだほうだいば)

城の形態台場
所在地徳島県徳島市
規模南北110m
城の歴史徳島藩主・蜂須賀斉裕が家臣で砲術家の勝浦安右衛門と小出由岐右衛門に命じて築造させた。文久3年(1863年)に工事を始め、翌元治元年(1864年)に完成した。大砲は、口径15センチの一等砲二門を含めて全部で三十門。台場上に二十門と左右の松原に各五門を配置。当時の御台場守備兵は50名。
築城年代元治元年(1864年)
築城主蜂須賀斉裕
城の現状場所は道の入り組んだ住宅のど真ん中、現在の海岸線から1キロ以上は離れていて、それだけ埋め立てが進んだということ。現在残っている史跡は東北部のみ20数メートルのみ、面積は全体の11分の1程度だそう。
津田砲台場公園掲示板砲台跡
砲台跡火薬庫の障壁

徳島市 沖洲砲台場(おきのすほうだいば)

城の形態台場
所在地徳島県徳島市
規模高さ一間、幅十間
城の歴史津田砲台場の副砲台として造られました。備砲は唐金の鋳物で長さ約一間のものが五門あったと云われている。
築城年代元治元年(1864年)
築城主蜂須賀斉裕
城の現状ここも現在の海岸から数百メートルの場所、砲台に関する遺構は何も無し。
沖洲砲台場跡
現沖洲公園
今も残る築堤跡、このあたりは昔は舟溜りだそう築堤の石垣

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」