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阿波の霊場(発心の道場)其の壱 1番〜8番

一番札所「霊山寺」 Ryouzen_ji   2016.9.30参拝

一番札所「霊山寺」

寺名称竺和山 一乗院 霊山寺(じくわざんいちじょういんりょうぜんじ)
住所徳島県鳴門市大麻町板東霊山寺126
開基・創建行基菩薩・天平年間(729〜749)
宗派高野山 真言宗
御本尊釈迦如来
本尊真言のうまく さんまんだ ぼだなんばく
ご詠歌霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も消えうせにけり
御朱印

◆JR鳴門線板東駅から北西に約1キロ、県道12号線へ出た正面に霊山寺があります。仁王門を潜ると正面が本堂、右が太子堂、接待所、本坊、左に鐘楼、多宝塔があり、お遍路をはじめる「発願の寺」を象徴している明治の庭があり、1番札所にふさわしい外観です。縁起によると聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創され、弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右回りに順教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられたそうである。

一番札所「霊山寺」仁王門 一番札所「霊山寺」本堂 一番札所「霊山寺」太子堂 一番札所「霊山寺」多宝塔
駐車場からの参拝入口仁王門密迹金剛那羅延金剛手水場
一番札所「霊山寺」不動明王十三仏 一番札所「霊山寺」不動明王十三仏 一番札所「霊山寺」三鈷松 一番札所「霊山寺」明治の庭
本堂大志堂多宝塔不動明王十三仏不動明王十三仏
一番札所「霊山寺」仁王門 一番札所「霊山寺」三鈷松 一番札所「霊山寺」明治の庭
三鈷松明治の庭境内より仁王門を見る一番霊山寺標柱

二番札所極楽寺 Gokuraku_ji   2016.10.5参拝

二番札所極楽寺

寺名称日照山 無量寿院 極楽寺(にっしょうざんむりょうじゅいんごくらくじ)
住所徳島県鳴門市大麻町檜段の上12
開基・創建行基菩薩・奈良時代(710〜793)
宗派高野山 真言宗
御本尊阿弥陀如来
本尊真言おん あみりた ていせいから うん
ご詠歌極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口ぐせにせよ
御朱印

◆行基菩薩の開基と伝えられている、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。その後、天正年間(1573?92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。

2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛手水場本堂への石段
2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺
本堂太子堂鐘楼観音堂釈迦如来
2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺
願掛け地蔵尊子授招福太師招福弁天水掛不動尊般若心経その心
般若心経現代語訳
2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺
お大師さんお手植えの長命杉鳴門市指定天然記念物「大杉」鳴門市指定天然記念物「大杉」長命杉にかかる紐
触れるとご利益あり
宿坊
2番極楽寺 2番極楽寺 2番極楽寺
沙羅の木(娑羅双樹)沙羅の木沙羅の木(ナツ椿)

三番札所金泉寺 Konsen_ji   2016.10.5参拝

三番札所金泉寺

寺名称亀光山 釈迦院 金泉寺(きこうざんしゃかいんこんせんじ)
住所徳島県板野郡板野町大寺亀山下66
開基・創建行基菩薩・天平年間(729〜749)
宗派高野山 真言宗
御本尊釈迦如来
本尊真言のうまく さんまんだ ぼだ なんばく
ご詠歌極楽の宝の池を思えただ 黄金の泉すみたたえたる
御朱印

◆聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。弘仁年間になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。太子堂脇の黄金地蔵尊にあるこの井戸は、覗いて顔が写れば長寿になると言い伝えられている。その後、亀山天皇が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。

3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺
金泉寺仁王門金泉寺仁王門密迹金剛那羅延金剛鐘楼
3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺
本堂太子堂観音堂多宝塔長慶天皇御陵
3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺
倶利迦羅龍王倶利迦羅龍王説明板黄金地蔵尊
中央井戸に注目
井戸に自分の顔が
写れば無病息災
太子堂北側の庭園
3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺 3番金泉寺
宿坊弁慶の力石伝説弁慶の力石義経の阿波進軍物語

四番札所大日寺 Dainichi_ji    2016.10.5参拝

四番札所大日寺

寺名称黒厳山 遍照院 大日寺(こくがんざんへんしょういんだいにちじ)
住所徳島県板野郡板野町黒谷字居内5
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊大日如来
本尊真言おん あびらうんけん ばざらだとばん
ご詠歌ながむれば月白妙の夜半なれや ただ黒谷にすみぞめの袖
御朱印

◆車の場合は県道12号線から地蔵寺の方が近いので逆打ちしても良いと思います。三方を山に囲まれ静寂な地である。弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。寂本の『四國禮霊場記』(元禄2年)によると、かつては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。しかし、歳月が経ち、伽藍の軒は風化していたが、応永年間に松法師という人に夢の託言があって修復されたという旨が記されている。伽藍は荒廃し、天和、貞享年間に再興されている。また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊としており、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間には手厚い保護をうけ寺塔の大修理がほどこされている。本堂と大師堂を結ぶ回廊には、西国三十三観音霊場の木造観世音像三十三を安置している。江戸時代の中頃、大阪の信者により奉納されたという。また、先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。

4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺
鐘楼門板野町史跡案内手水場本堂
4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺
大師堂納経所弁財天女西国三十三観音
4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺 4番大日寺
西国三十三観音西国三十三観音観音堂三十三観音修復案内

五番札所地蔵寺 Jizou_ji    2016.10.5参拝

五番札所地蔵寺

寺名称無尽山 荘厳院 地蔵寺(むじんざんそうごんいんじぞうじ)
住所徳島県板野郡板野町羅漢林東5
開基・創建弘法大師・弘仁12年(821)
宗派真言宗 御室派
御本尊胎内仏・勝軍地蔵菩薩・延命地蔵
本尊真言おん かかかび えい そわか
ご詠歌六道の能化の地蔵大菩薩 導き給えこの世後の世
御朱印

◆この辺りは地元では昔から羅漢といわれて、「羅漢さん」という名で親しまれている古い名刹のお寺である。山門を入ると中央にお大師さんお手植えの樹齢800年を越える銀杏の巨木があり左に本堂、正面が本坊、右に太子堂と淡島堂がある。嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら約5.5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。しかし、天正年間(1573?92)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は12,000坪にもおよぶ古刹である。本堂左の参道を通り、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。

5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺
山門密迹金剛那羅延金剛本堂太師堂
5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺
淡島堂鐘楼と太師像修行大師様御縁起之碑納経所太師さん手植の大銀杏
5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺 5番地蔵寺
本堂南の五百羅漢への通路五百羅漢への通路羅漢から見る地蔵寺森甚太夫家の墓所森甚太夫家の墓所

六番札所安楽寺 anraku_ji    2016.10.5参拝

六番札所安楽寺

寺名称温泉山 瑠璃光院 安楽寺(おんせんざんるりこういんあんらくじ)
住所徳島県板野郡上板町引野寺の西北8
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ まとうぎ そわか
ご詠歌かりの世に知行争うむやくなり 安楽国の守護をのぞめよ
御朱印

◆県道12号線、上板町引野の交差点を曲がり西へ600m程行くと広い駐車場や左に大きな伽藍が幾重にもなって見えてくる。ここが四国88ヶ所の中でも一二を争う300名収容できる温泉付きの宿坊がある安楽寺である。『四國禮霊場記』には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」が今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945?)が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。

6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺
山門と仁王堂密迹金剛那羅延金剛本堂太師堂
6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺
手水場多宝塔本堂と標柱安楽寺由来大師お手植
厄除けのさか松
6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺 6番安楽寺
安楽橋徒歩巡礼、物故者菩提所宿坊茶処
6番安楽寺 6番安楽寺
境内全景本堂・太子堂全景、右の茅葺き屋根の方丈は蜂須賀家寄進

七番札所十楽寺 Jyuuraku_ji    2016.10.5参拝

七番札所十楽寺

寺名称光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざんれんげいんじゅうらくじ)
住所徳島県阿波市土成町高尾字法教田58
開基・創建弘法大師・大同年間(806〜810)
宗派高野山 真言宗
御本尊阿弥陀如来
本尊真言おん あみりた ていせいから うん
ご詠歌人間の八苦を早く離れなば 到らん方は九品十楽
御朱印

◆寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。大同年間に弘法大師がこの地を巡教逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。 創建から暫くは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。明治になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力でお祈りしたい。

7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺
竜宮門十楽寺標柱山門手水場本堂
7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺
太子堂への石段太子堂治眼疾目救歳地蔵尊水子不動尊十三不動明王
7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺 7番十楽寺
慰霊塔戦没者慰霊碑食事処「十楽」

 Kumadani_ji

寺名称普明山 真光院 熊谷寺(ふみょうざんしんこういんくまだにじ)
住所徳島県阿波市土成町土成字前田185
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊千手観世音菩薩
本尊真言おん ばざらたらま きりく
ご詠歌たきぎとり水熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため
御朱印

◆県道139号線から広域農道へ約200m行くと左手に貞享4年(1687)の建立の県指定文化財で四国霊場の中で最大級の仁王門がある。右に行くと右に大きなよく整備された弁天池、左手に庫裡、羅漢堂、多宝塔や奥の本堂まで300mはあろうか実に立派な寺院である。周りは田園地帯で実にのどかな一帯です。
 縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていたとき、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。

8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺
県指定文化財
「仁王門」
県指定文化財
「仁王門」石碑
県指定文化財
「仁王門」
仁王門北より広域農道より見る
8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺
多宝塔参道山門手前の石段山門手水場
8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺
本堂太子堂へ登る石段太子堂鐘楼修行太子様
8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺 8番熊谷寺
延命龍頭観音仁王門絵天井陶板経木供養所弁天池

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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」