■四国88ヶ所霊場
■板東俘虜収容所
■メインメニュー
■徳島県の他の古城跡
Ryouzen_ji 2016.9.30参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆JR鳴門線板東駅から北西に約1キロ、県道12号線へ出た正面に霊山寺があります。仁王門を潜ると正面が本堂、右が太子堂、接待所、本坊、左に鐘楼、多宝塔があり、お遍路をはじめる「発願の寺」を象徴している明治の庭があり、1番札所にふさわしい外観です。縁起によると聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創され、弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右回りに順教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられたそうである。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
駐車場からの参拝入口 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 手水場 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂 | 大志堂 | 多宝塔 | 不動明王十三仏 | 不動明王十三仏 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
三鈷松 | 明治の庭 | 境内より仁王門を見る | 一番霊山寺標柱 |
Gokuraku_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆行基菩薩の開基と伝えられている、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。その後、天正年間(1573?92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 手水場 | 本堂への石段 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂 | 太子堂 | 鐘楼 | 観音堂 | 釈迦如来 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
願掛け地蔵尊 | 子授招福太師 | 招福弁天 | 水掛不動尊 | 般若心経その心 般若心経現代語訳 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
お大師さんお手植えの長命杉 | 鳴門市指定天然記念物「大杉」 | 鳴門市指定天然記念物「大杉」 | 長命杉にかかる紐 触れるとご利益あり | 宿坊 |
![]() |
![]() |
![]() |
||
沙羅の木(娑羅双樹) | 沙羅の木 | 沙羅の木(ナツ椿) |
Konsen_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。弘仁年間になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。太子堂脇の黄金地蔵尊にあるこの井戸は、覗いて顔が写れば長寿になると言い伝えられている。その後、亀山天皇が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
金泉寺仁王門 | 金泉寺仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 鐘楼 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂 | 太子堂 | 観音堂 | 多宝塔 | 長慶天皇御陵 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
倶利迦羅龍王 | 倶利迦羅龍王説明板 | 黄金地蔵尊 中央井戸に注目 | 井戸に自分の顔が 写れば無病息災 | 太子堂北側の庭園 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
宿坊 | 弁慶の力石伝説 | 弁慶の力石 | 義経の阿波進軍物語 |
Dainichi_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆車の場合は県道12号線から地蔵寺の方が近いので逆打ちしても良いと思います。三方を山に囲まれ静寂な地である。弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。寂本の『四國禮霊場記』(元禄2年)によると、かつては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。しかし、歳月が経ち、伽藍の軒は風化していたが、応永年間に松法師という人に夢の託言があって修復されたという旨が記されている。伽藍は荒廃し、天和、貞享年間に再興されている。また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊としており、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間には手厚い保護をうけ寺塔の大修理がほどこされている。本堂と大師堂を結ぶ回廊には、西国三十三観音霊場の木造観世音像三十三を安置している。江戸時代の中頃、大阪の信者により奉納されたという。また、先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
鐘楼門 | 板野町史跡案内 | 手水場 | 本堂 | |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
大師堂 | 納経所 | 弁財天女 | 西国三十三観音 | |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
西国三十三観音 | 西国三十三観音 | 観音堂 | 三十三観音修復案内 |
Jizou_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆この辺りは地元では昔から羅漢といわれて、「羅漢さん」という名で親しまれている古い名刹のお寺である。山門を入ると中央にお大師さんお手植えの樹齢800年を越える銀杏の巨木があり左に本堂、正面が本坊、右に太子堂と淡島堂がある。嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら約5.5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。しかし、天正年間(1573?92)の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は12,000坪にもおよぶ古刹である。本堂左の参道を通り、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
山門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 本堂 | 太師堂 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
淡島堂 | 鐘楼と太師像 | 修行大師様御縁起之碑 | 納経所 | 太師さん手植の大銀杏 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂南の五百羅漢への通路 | 五百羅漢への通路 | 羅漢から見る地蔵寺 | 森甚太夫家の墓所 | 森甚太夫家の墓所 |
anraku_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆県道12号線、上板町引野の交差点を曲がり西へ600m程行くと広い駐車場や左に大きな伽藍が幾重にもなって見えてくる。ここが四国88ヶ所の中でも一二を争う300名収容できる温泉付きの宿坊がある安楽寺である。『四國禮霊場記』には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」が今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945?)が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
山門と仁王堂 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 本堂 | 太師堂 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
手水場 | 多宝塔 | 本堂と標柱 | 安楽寺由来 | 大師お手植 厄除けのさか松 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
安楽橋 | 徒歩巡礼、物故者菩提所 | 宿坊 | 茶処 |
![]() |
![]() |
境内全景 | 本堂・太子堂全景、右の茅葺き屋根の方丈は蜂須賀家寄進 |
---|
Jyuuraku_ji 2016.10.5参拝
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。大同年間に弘法大師がこの地を巡教逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。 創建から暫くは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。明治になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力でお祈りしたい。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
竜宮門 | 十楽寺標柱 | 山門 | 手水場 | 本堂 |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
太子堂への石段 | 太子堂 | 治眼疾目救歳地蔵尊 | 水子不動尊 | 十三不動明王 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
慰霊塔 | 戦没者慰霊碑 | 食事処「十楽」 |
Kumadani_ji
| 御朱印 | ![]() |
---|
◆県道139号線から広域農道へ約200m行くと左手に貞享4年(1687)の建立の県指定文化財で四国霊場の中で最大級の仁王門がある。右に行くと右に大きなよく整備された弁天池、左手に庫裡、羅漢堂、多宝塔や奥の本堂まで300mはあろうか実に立派な寺院である。周りは田園地帯で実にのどかな一帯です。
縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていたとき、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
県指定文化財 「仁王門」 | 県指定文化財 「仁王門」石碑 | 県指定文化財 「仁王門」 | 仁王門北より | 広域農道より見る |
---|---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
多宝塔 | 参道 | 山門手前の石段 | 山門 | 手水場 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本堂 | 太子堂へ登る石段 | 太子堂 | 鐘楼 | 修行太子様 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
延命龍頭観音 | 仁王門絵天井陶板 | 経木供養所 | 弁天池 |
Copyright © 2015 copyrights.basie.mobi All Rights Reserved.
参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」