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ベイシー写真館

■四国88ヶ所霊場

阿波の霊場(発心の道場)其の弐 9番〜16番

九番札所「法輪寺」 Hourin_ji   2016.10.24参拝

九番札所「法輪寺」

寺名称正覚山 菩提院 法輪寺(しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ)
住所徳島県阿波市土成町土成字田中198-2
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊涅槃釈迦如来
本尊真言のうまく さんまんだ ぼだなんばく
ご詠歌大乗のひほうもとがもひるがえし 転法輪の縁とこそきけ
御朱印

◆古くは「白蛇山法林寺」といわれ、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていた。そこにはその礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。長宗我部元親はまず永禄12年(1569)土佐を平定後、阿波に攻め入り池田大西城、勝瑞城を落とした。この戦乱で阿波の殆んどの寺々は焼失した。法輪寺もこの頃は白蛇山法林寺と呼ばれていたが堂宇はすべて焼け落ちた。現在の堂宇が再建されたのは正保年間(1644〜48)で、当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、山号と寺名をいまの「正覚山法輪寺」と改めた。しかし安政時代にまたも罹災し、現在の堂塔は明治時代に再建された。御本尊は弘法大師が刻まれた釈迦如来涅槃像である。

9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛法輪寺石柱境内から見る仁王門
9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺 9番法輪寺
手水場本堂太子堂納経所修行太子像
9番法輪寺
日本遺産プレート

十番札所切幡寺 Kirihata_ji   2016.10.24参拝

十番札所切幡寺

寺名称得度山 灌頂院 切幡寺(とくどざんかんじょういんきりはたじ)
住所徳島県阿波市市場町切幡字観音129
開基・創建弘法大師・弘仁年間(810?824)
宗派高野山 真言宗
御本尊千手観世音菩薩
本尊真言おん ばざらたらま きりく
ご詠歌欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障りとぞなる
御朱印

◆県道139号線市場町切幡から北へ入ると200m位の遍路宿や巡礼用具店が並ぶ門前町になっている。道は非常に狭くバスは手前駐車場に停まっているようです。山門を抜けると駐車場になっており其の先の杖なし橋を渡って行くと延々と石段が続いて、三百三十三段あり最後に女厄坂、男厄坂を登りきれば本堂にたどりつけます。足腰に自信の無い方はすぐ横に車道もあるけど勾配は非常にきつそう。山麓の貧しい小部落にハタを織る若い女がいた。たまたま弘法大師が立寄って喜捨を乞うたところ、女はこころよく接待した。七日後も女はいま織っていた白布を惜しげもなく切り裂いてさしだした。大師は感激してその理由をたずね、女の願いを聞いて哀れに思い、その家に留まり、千手観世音を刻み、女を得度させて潅頂を授けた。すると女はたちまち即身成仏して観世音菩薩に化身した。このことから「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。

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10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺
県道沿いの参道入口仁王門密迹金剛那羅延金剛駐車場から
10番切幡寺 10番切幡寺10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺
杖無し橋まずここから333段ここからさらに234段女厄除坂
10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺
男厄坂42段手水場本堂太子堂鐘楼
10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺
納経所不動堂切幡寺大塔概要境内より国指定重要文化財
10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺 10番切幡寺
切幡寺大塔大塔からの眺望修行大師様はたきり観音

十一番札所藤井寺 Fujii_dera   2016.10.24参拝

十一番札所藤井寺

寺名称金剛山 一乗院 藤井寺(こんごうざんいちじょういんふじいでら)
住所徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派臨済宗 妙心寺派
御本尊薬師如来(伝弘法大師作)
本尊真言おん ころころ まとうぎ そわか
ご詠歌色も香も無比中道の藤井寺 真如の波のたたぬ日もなし
御朱印

◆九番法輪寺東の国道318号線の吉野川鴨島中央橋を渡ってほぼ真南約3kの山麓に藤井寺がある。弘法大師は三方を山に囲まれ、すぐ横を流れる渓流に心惹かれた大師がこの地で護摩修法をされたのは弘仁6年のこと。大師は42歳の厄年に、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と呼ばれるようになった。寺は真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展したが、天正の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、昔の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。

11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺
駐車場からの寺遠望仁王門那羅延金剛密迹金剛手水場及水子不動
11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺
本堂太子堂本堂天井画雲竜不動堂白龍弁財天
11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺 11番藤井寺
鐘楼修行大師様藤井寺縁起12番焼山寺への
遍路道
遍路道ここから
山道を約10k強
11番藤井寺
本堂天井画「雲竜」30畳程の大きさ
11番藤井寺
山門を入って直ぐの境内、右は藤の古木(大師が悪疫退散の祈願の後にお手植えされた)

十二番札所焼山寺 Syousan_ji    2016.10.31参拝

十二番札所焼山寺

寺名称摩廬山 正寿院 焼山寺(まろざんしょうじゅいんしょうさんじ)
住所徳島県名西郡神山町下分字中318
開基・創建役行者小角・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊大日如来
本尊真言のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか
ご詠歌後の世を思えば恭敬焼山寺 死出や三途の難所ありとも
御朱印

◆四国霊場には六ヶ所の苦行の札所があり、ここ焼山寺と二十番鶴林寺、二十一番太竜寺、二十七番神峰寺、六十番横峰寺、六十六番雲辺寺の各札所で昔は”遍路ころがし”といわれる難所であったが、ここ焼山寺は今では普通乗用車であれば山門近くまで辿り着ける。焼山寺とは毒蛇の口から発する火で全山燃えあがったということから、焼け山の寺と名付けられたそうで、縁起によると太師がここに寺を開創しようとすると魔の大蛇がこれを嫌い、全山を火の海にして妨害した。大師は印を結び火にめがけて登っていくと、火は次第に衰えた。やまを殆んど登りきった処に行く手を遮ったのは大きな大蛇。大師は虚空菩薩の加護のもと、その大蛇を岩屋に封じ込め、大黒天を刻んで安置したという。ここの境内は海抜八百メートル、雲辺寺に次いで四国2番目の高さである。なおここから神山町へ2.5k程下った処に奥の院、杖杉庵がある。ここは大師と衛門三郎の伝説の場所でもある。

十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
駐車場から参道への
入口にある大黒天
参道から本堂への石段仁王門密迹金剛那羅延金剛
十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
杉の巨木本堂、左は弁財天手水場手水場の見事な苔焼山寺由来
十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
鐘楼鐘の由来太子堂修行大師様
十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
納経所前寺藤井寺
次寺大日寺案内
阿弥陀如来勢至菩薩観世音菩薩
十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
薬師如来弥勒菩薩地蔵菩薩文殊菩薩釈迦如来
十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺 十二番焼山寺
普賢菩薩慈母観音菩薩不動明王境内横の十二社神社
十二番焼山寺 十二番焼山寺

番外札所「杖杉庵」

杖杉庵 杖杉庵 杖杉庵 杖杉庵 杖杉庵
杖杉庵杖杉庵空海と衛門三郎の像衛門三郎の碑衛門三郎の碑

 現在は無住職であり、納経印は焼山寺でうけられる。

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十三番札所大日寺 Dainichi_ji    2016.10.31参拝

十三番札所大日寺

寺名称大栗山 花蔵院 大日寺(おおぐりざんけぞういんだいにちじ)
住所徳島県徳島市一宮町西丁263
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派真言宗 大覚寺派
御本尊十一面観世音菩薩
本尊真言おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌阿波の国一宮とはゆうだすき かけて頼めやこの世のちの世
御朱印

◆別名一宮寺と呼ばれる大日寺はお寺と神社が道を挟んで真向かいに並んでいる。元々は神社が阿波一国の鎮守として集めた一宮。寺はその別寺、大日寺として一緒だったが、明治の神仏分離のため神社は十一面観世音を大日寺へ移し神社と寺は別々の存在になった。開基は弘仁6年、弘法大師で、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていた際に、空中から大日如来が舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。そこで大師は大日如来を刻み、堂宇を建立し其の像を本尊として安置した。寺の大師の森、裏山には延元3年、小笠原長宗や蜂須賀家政が居城した一宮城がある。なおここから徳島市へ上った入田町には大日寺奥の院”建治寺”がある、ここはお大師様が荒行を修されたところ。

十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺
山門手水場本堂太子堂子安地蔵尊
十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺 十三番大日寺
しあわせ観音水子地蔵納経所向かいの一宮神社
十三番奥の院建治寺
十三番奥の院建治寺
十三番奥の院建治寺
十三番奥の院建治寺境内からの眺望

十四番札所常楽寺 Joraku_ji    2016.10.31参拝

寺名称盛寿山 延命院 常楽寺(せいじゅざんえんめいいんじょうらくじ)
住所徳島県徳島市国府町延命606
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派高野山 真言宗
御本尊弥勒菩薩
本尊真言おん まいたれ いや そわか
ご詠歌かりの世に知行争うむやくなり 安楽国の守護をのぞめよ
御朱印

◆この寺の御本尊である弥勒菩薩は五十六億7千万年後に、兜卒天(とそってん)という処からこの世に下られ、釈迦の救いが得られなかった人々を救済するという。我々の想像もつかない永遠の時代に出現するという未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。四国霊場の中で唯一この弥勒菩薩を御本尊としているのが、ここ常楽寺である。寺は溜池の脇を通り石段を上がるが山門は無く石段も岩地を階段状に切り取った石段である。境内も緩やかな起伏の岩盤で「流水岩の庭」と呼ばれている。

十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺
溜池横の山門参道石段は自然石
削り出し
本堂太子堂手前の樹が
アララギ(イチイ)
十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺
手水場愛染堂地蔵堂鐘楼修行大師様
アララギ大師 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺 十四番常楽寺
納経所地蔵菩薩像イチイ(アララギ)
の大樹
アララギ大師説明板

十五番札所國分寺 Kokubun_ji    2016.10.31参拝

十五番札所國分寺

寺名称薬王山 金色院 國分寺(やくおうざんこんじきいんこくぶんじ)
住所徳島県徳島市国府町矢野718-1
開基・創建行基菩薩・天平13年(741)
宗派曹洞宗
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌薄く濃くわけわけ色を染めぬれば 流転生死の秋のもみじ葉
御朱印

◆十四番の常楽寺から山沿いに10分も歩くと國分寺の山門に着く。天平十三年(741)、聖武天皇は国ごとの最もよい場所を選んで金光明四天王護国之寺という僧寺と、法草滅罪之尼寺を建立するように命じた。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波國分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。創建当初は南北一町半、東西一町十間の長方形で、奈良東大寺式の伽藍配置で、広大な大寺院であったが、天正の兵火で全て焼失したが、唯一、鳥瑟沙麻明王堂のみ残っており500年以上経ている。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されて以来、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。

十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺
山門手水場本堂太子堂鳥瑟沙麻明王堂(うすさまみょうおうどう)
十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺
鐘楼聖武天皇勅願所納経所
十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺 十五番國分寺
県文化財阿波国分寺跡七重塔心礎七重塔心礎日本遺産四国遍路
国分寺
阿波考古学資料館
近くにあります

十六番札所観音寺 Kannon_ji    2016.10.31参拝

十六番札所観音寺

寺名称光耀山 千手院 観音寺(こうようざんせんじゅいんかんおんじ)
住所徳島県徳島市国府町観音寺49-2
開基・創建弘法大師・天平13年(741)
宗派高野山 真言宗
御本尊千手観世音菩薩
本尊真言おん ばざら たらま きりく
ご詠歌忘れずも導きたまえ観音寺 西方世界弥陀の浄土へ
御朱印

◆国府町の町中、宿屋、料理屋、雑貨屋などが並んでいる西方に観音寺の山門がある。寺の創建は天平13年なので、15番国分寺の造寺と相前後した時代である。聖武天皇勅願の道場であり、弘仁7年に弘法大師が留まって本尊の千手観世音菩薩像と脇侍の不動明王、毘沙門天を刻まれ安置された。天正の兵火により中世の頃は荒廃していたが、万治2年に僧宥応が再興し、また領主の蜂須賀氏は信仰が厚く、現存する堂宇はその頃再建されたもの。ご本尊の千手観世音は人間の苦しみや悩みに応じて即座に救いの手を差し伸べてくれる観世音で、御本尊のご利益を得た遍路が松葉杖を奉納している。

十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺
山門本堂太子堂手水場夜泣き地蔵
十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺 十六番観音寺
修行大師様水子地蔵仏足跡納経所境内にある
八幡総社神社

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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」