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Hourin_ji 2016.10.24参拝
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◆古くは「白蛇山法林寺」といわれ、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていた。そこにはその礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。長宗我部元親はまず永禄12年(1569)土佐を平定後、阿波に攻め入り池田大西城、勝瑞城を落とした。この戦乱で阿波の殆んどの寺々は焼失した。法輪寺もこの頃は白蛇山法林寺と呼ばれていたが堂宇はすべて焼け落ちた。現在の堂宇が再建されたのは正保年間(1644〜48)で、当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、山号と寺名をいまの「正覚山法輪寺」と改めた。しかし安政時代にまたも罹災し、現在の堂塔は明治時代に再建された。御本尊は弘法大師が刻まれた釈迦如来涅槃像である。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 法輪寺石柱 | 境内から見る仁王門 |
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手水場 | 本堂 | 太子堂 | 納経所 | 修行太子像 |
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日本遺産プレート |
Kirihata_ji 2016.10.24参拝
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◆県道139号線市場町切幡から北へ入ると200m位の遍路宿や巡礼用具店が並ぶ門前町になっている。道は非常に狭くバスは手前駐車場に停まっているようです。山門を抜けると駐車場になっており其の先の杖なし橋を渡って行くと延々と石段が続いて、三百三十三段あり最後に女厄坂、男厄坂を登りきれば本堂にたどりつけます。足腰に自信の無い方はすぐ横に車道もあるけど勾配は非常にきつそう。山麓の貧しい小部落にハタを織る若い女がいた。たまたま弘法大師が立寄って喜捨を乞うたところ、女はこころよく接待した。七日後も女はいま織っていた白布を惜しげもなく切り裂いてさしだした。大師は感激してその理由をたずね、女の願いを聞いて哀れに思い、その家に留まり、千手観世音を刻み、女を得度させて潅頂を授けた。すると女はたちまち即身成仏して観世音菩薩に化身した。このことから「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。
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県道沿いの参道入口 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 駐車場から |
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杖無し橋 | まずここから333段 | ここからさらに234段 | 女厄除坂 | |
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男厄坂42段 | 手水場 | 本堂 | 太子堂 | 鐘楼 |
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納経所 | 不動堂 | 切幡寺大塔概要 | 境内より | 国指定重要文化財 |
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切幡寺大塔 | 大塔からの眺望 | 修行大師様 | はたきり観音 |
Fujii_dera 2016.10.24参拝
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◆九番法輪寺東の国道318号線の吉野川鴨島中央橋を渡ってほぼ真南約3kの山麓に藤井寺がある。弘法大師は三方を山に囲まれ、すぐ横を流れる渓流に心惹かれた大師がこの地で護摩修法をされたのは弘仁6年のこと。大師は42歳の厄年に、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と呼ばれるようになった。寺は真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展したが、天正の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、昔の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。
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駐車場からの寺遠望 | 仁王門 | 那羅延金剛 | 密迹金剛 | 手水場及水子不動 |
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本堂 | 太子堂 | 本堂天井画雲竜 | 不動堂 | 白龍弁財天 |
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鐘楼 | 修行大師様 | 藤井寺縁起 | 12番焼山寺への 遍路道 | 遍路道ここから 山道を約10k強 |
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本堂天井画「雲竜」30畳程の大きさ |
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山門を入って直ぐの境内、右は藤の古木(大師が悪疫退散の祈願の後にお手植えされた) |
Syousan_ji 2016.10.31参拝
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◆四国霊場には六ヶ所の苦行の札所があり、ここ焼山寺と二十番鶴林寺、二十一番太竜寺、二十七番神峰寺、六十番横峰寺、六十六番雲辺寺の各札所で昔は”遍路ころがし”といわれる難所であったが、ここ焼山寺は今では普通乗用車であれば山門近くまで辿り着ける。焼山寺とは毒蛇の口から発する火で全山燃えあがったということから、焼け山の寺と名付けられたそうで、縁起によると太師がここに寺を開創しようとすると魔の大蛇がこれを嫌い、全山を火の海にして妨害した。大師は印を結び火にめがけて登っていくと、火は次第に衰えた。やまを殆んど登りきった処に行く手を遮ったのは大きな大蛇。大師は虚空菩薩の加護のもと、その大蛇を岩屋に封じ込め、大黒天を刻んで安置したという。ここの境内は海抜八百メートル、雲辺寺に次いで四国2番目の高さである。なおここから神山町へ2.5k程下った処に奥の院、杖杉庵がある。ここは大師と衛門三郎の伝説の場所でもある。
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駐車場から参道への 入口にある大黒天 | 参道から本堂への石段 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 |
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杉の巨木 | 本堂、左は弁財天 | 手水場 | 手水場の見事な苔 | 焼山寺由来 |
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鐘楼 | 鐘の由来 | 太子堂 | 修行大師様 | |
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納経所 | 前寺藤井寺 次寺大日寺案内 | 阿弥陀如来 | 勢至菩薩 | 観世音菩薩 |
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薬師如来 | 弥勒菩薩 | 地蔵菩薩 | 文殊菩薩 | 釈迦如来 |
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普賢菩薩 | 慈母観音菩薩 | 不動明王 | 境内横の十二社神社 | |
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杖杉庵 | 杖杉庵 | 空海と衛門三郎の像 | 衛門三郎の碑 | 衛門三郎の碑 |
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現在は無住職であり、納経印は焼山寺でうけられる。
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Dainichi_ji 2016.10.31参拝
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◆別名一宮寺と呼ばれる大日寺はお寺と神社が道を挟んで真向かいに並んでいる。元々は神社が阿波一国の鎮守として集めた一宮。寺はその別寺、大日寺として一緒だったが、明治の神仏分離のため神社は十一面観世音を大日寺へ移し神社と寺は別々の存在になった。開基は弘仁6年、弘法大師で、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていた際に、空中から大日如来が舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。そこで大師は大日如来を刻み、堂宇を建立し其の像を本尊として安置した。寺の大師の森、裏山には延元3年、小笠原長宗や蜂須賀家政が居城した一宮城がある。なおここから徳島市へ上った入田町には大日寺奥の院”建治寺”がある、ここはお大師様が荒行を修されたところ。
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山門 | 手水場 | 本堂 | 太子堂 | 子安地蔵尊 |
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しあわせ観音 | 水子地蔵 | 納経所 | 向かいの一宮神社 |
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十三番奥の院建治寺 |
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十三番奥の院建治寺境内からの眺望 |
Joraku_ji 2016.10.31参拝
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◆この寺の御本尊である弥勒菩薩は五十六億7千万年後に、兜卒天(とそってん)という処からこの世に下られ、釈迦の救いが得られなかった人々を救済するという。我々の想像もつかない永遠の時代に出現するという未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。四国霊場の中で唯一この弥勒菩薩を御本尊としているのが、ここ常楽寺である。寺は溜池の脇を通り石段を上がるが山門は無く石段も岩地を階段状に切り取った石段である。境内も緩やかな起伏の岩盤で「流水岩の庭」と呼ばれている。
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溜池横の山門 | 参道 | 石段は自然石 削り出し | 本堂 | 太子堂手前の樹が アララギ(イチイ) |
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手水場 | 愛染堂 | 地蔵堂 | 鐘楼 | 修行大師様 |
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納経所 | 地蔵菩薩像 | イチイ(アララギ) の大樹 | アララギ大師 | 説明板 |
Kokubun_ji 2016.10.31参拝
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◆十四番の常楽寺から山沿いに10分も歩くと國分寺の山門に着く。天平十三年(741)、聖武天皇は国ごとの最もよい場所を選んで金光明四天王護国之寺という僧寺と、法草滅罪之尼寺を建立するように命じた。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波國分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。創建当初は南北一町半、東西一町十間の長方形で、奈良東大寺式の伽藍配置で、広大な大寺院であったが、天正の兵火で全て焼失したが、唯一、鳥瑟沙麻明王堂のみ残っており500年以上経ている。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されて以来、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。
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山門 | 手水場 | 本堂 | 太子堂 | 鳥瑟沙麻明王堂(うすさまみょうおうどう) |
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鐘楼 | 聖武天皇勅願所 | 納経所 | ||
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県文化財阿波国分寺跡 | 七重塔心礎 | 七重塔心礎 | 日本遺産四国遍路 国分寺 | 阿波考古学資料館 近くにあります |
Kannon_ji 2016.10.31参拝
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◆国府町の町中、宿屋、料理屋、雑貨屋などが並んでいる西方に観音寺の山門がある。寺の創建は天平13年なので、15番国分寺の造寺と相前後した時代である。聖武天皇勅願の道場であり、弘仁7年に弘法大師が留まって本尊の千手観世音菩薩像と脇侍の不動明王、毘沙門天を刻まれ安置された。天正の兵火により中世の頃は荒廃していたが、万治2年に僧宥応が再興し、また領主の蜂須賀氏は信仰が厚く、現存する堂宇はその頃再建されたもの。ご本尊の千手観世音は人間の苦しみや悩みに応じて即座に救いの手を差し伸べてくれる観世音で、御本尊のご利益を得た遍路が松葉杖を奉納している。
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山門 | 本堂 | 太子堂 | 手水場 | 夜泣き地蔵 |
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修行大師様 | 水子地蔵 | 仏足跡 | 納経所 | 境内にある 八幡総社神社 |
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」