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Zenjibu_ji 2017.10.9 参拝
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◆ 禅師峰寺のあるこの山は観世音の補陀洛山”理想の山”に似ていて八葉の蓮台の形をしていることから、大同二年(807)弘法大師が巡ヨウして八葉山の山号をつけ、自作の十一面観音を安置し、霊場とした。仁王門の金剛力士二体は仏師定明の作で、「願主蓮月房良慶 仏師定明 正応四年辛卯月日」と銘があり、鎌倉時代に制作されたものとして重要文化財に指定されている。門をくぐって境内に入ると参道の右側は黒と灰色の縞模様奇岩が並んでいて補陀洛への道はかくやと思わせる珍しい参道である。歴代の土佐藩主は甲浦出港の際、必ずここに詣でて海路安全を祈願したので、この本尊は”船魂(ふなだま)の観音”と呼ばれている。境内から望むと、はるか彼方に月の名所の桂浜が、柔らかい曲線を描いて美しい曲線をみせている。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 禅師峰寺縁起 | 四国遺産「禅師峰寺」 | ||||||||||||
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境内への自然石の石段 | 石段右の奇岩が続く | 本堂 | 大志堂 | 十一面観世音菩薩 |
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禅師峰寺から望む遠景、中央右奥に桂浜が望めます |
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修行大師像 | 鐘楼 | 手水舎 | 長宗我部信親の墓 |
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Sekkei_ji 2017.10.9 参拝
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◆ 種崎から浦戸大橋を越えて野中兼山ゆかりの新川橋から右折して東に行くと城山の南山麓に雪蹊寺がある。寺に山門は無く石柱の門を入ると鐘楼が建ち、正面に本堂、右大志堂、左に観音堂などがならんでいる。弘法大師の開創で何度か名を改め元親公の菩提寺となってからその法名雪蹊恕三大居士にちなみ小林山雪蹊寺となった。雪蹊寺の縁起は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。
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雪蹊寺山門 | 本堂 | 大志堂 | 手水舎・休憩所 | 鐘楼 |
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観音堂 | 納経所 | 近くの長宗我部墓所にある雪蹊寺案内 |
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秦神社 | 秦神社 | 長浜城跡 | 長宗我部盛親公慰霊碑 | 戸次川の戦い戦没者 |
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西宮神社 | 西宮神社 |
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長宗我部元親の墓 | 長宗我部元親の墓案内 | 長宗我部元親の墓 | 長宗我部元親の墓 | 長宗我部元親説明 |
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戦没将士の碑 | ||||
Tanema_ji 2017.10.9 参拝
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◆ 敏達天皇の六年(577)に、百済の国の皇子が仏師、仏工らを同行して来日、大阪の四天王寺を造営したが本国に帰航の途中、暴風雨に遭い、この近くの湾に避難した。そこで海上安全を祈って薬師如来を彫ってここへ置いて帰った。やがて弘法大師がその薬師如来像を本尊として三十四番を開創したその際大師は唐から持ち帰った五穀の種子(米・麦・あわ・きび・豆)をこの地にまかれたので、この寺を種間寺と名付けたという。天暦年間(947〜57)には、ときの村上天皇(在位946〜67)が「種間」の勅額を下賜され、また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われている。ただ、やはり廃仏毀釈の難では、容赦がなかった。 本尊は「安産の薬師さん」で、また、底の抜けた柄杓に人気があり、信者が多い。
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三十四番種間寺石柱 | 入口 | 本堂 | 大志堂 | 子育地蔵 |
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修行大師像 | 子育観音 | 手水舎 | 鐘楼 | 古い手水鉢 |
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さわり大黒 | 修行大師像 | 沙羅双樹の樹 | しだれ赤松 | しだれ桜 |
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弘法大師尊像 | 納経所 | 本坊 |
Kiyotaki_ji 2017.12.10 参拝
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◆ 土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころである。清滝寺は寺伝によると、養老七年(723)行基菩薩がご本尊の薬師如来を刻み寺を開創、景山密院繹木寺と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ本堂から300mの山中で17日間修法され、満願の日に金剛杖で大地を突くと清水が湧き出て鏡のような池になった。そこで医王山鏡池院清滝寺に改め、霊場に定められた。この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。
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仁王門 | 密迹金剛 | 本堂 | 本堂軒の彫刻 | 大志堂 |
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厄除け薬師如来立像 | 手水舎 | 護摩堂 | ||
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本坊山門 | 本坊・庫裡 | 鐘楼 | 納経所 | 修行大師像 |
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平和観音 | 境内からの土佐市街 | 麓からの清滝寺 | 隣接する琴平神社 |
Syoryu_ji 2017.12.10 参拝
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◆ 宇佐大橋から見る湾の景色は素晴らしい。橋が出来るまでは市営の発動機船での渡し船で、弘法大師も青龍寺を開く時、船で渡り8人の共を井之尻に残し、その子孫がこの渡し船を守ってきたと言われている。弘法大師は中国唐に留学中、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵(とっこしょ)を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。帰国した大師はこの地を巡教して独鈷杵を感得し、弘仁六年(815)嵯峨天皇に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。
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仁王門 | 日本遺産「四国遍路」 青龍寺 | 参道石段 | 三重塔 | 手水舎 |
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本堂 | 大志堂 | 聖天堂 | 水子地蔵尊 | 薬師如来堂 |
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不動明王像 | 不動明王像 | 恵果あじゃり堂 | 修行大師像 | |
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納経所 | 本坊 | 多宝塔 | 青龍寺案内 | 隣接する白山神社 |
Iwamoto_ji 2017.12.10 参拝
◆ 窪川の町の山を越えた海抜320mの台地、いわゆる高南台地に岩本寺がある。開基は行基菩薩で、聖武天皇の勅を奉じ、仁井田明神のかたわらに建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身である。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置し、自ら星供曼荼羅を書写して星供秘法を修し藤井寺五徳智院と号した。八十八ヶ所中、他のお寺は仏様が何体あってもお脇立てであるが、当寺だけは五体全部が本尊である。
また伝説として当寺は”岩本七不思議”が昔から伝わっている。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 日本遺産「四国遍路」 岩本寺 | 仁王門 |
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本堂 | 大志堂 | 静流殿 | 歓喜天(聖天堂) | 手水舎 |
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本堂内陣の格天井画(全国から公募の花鳥風月から人間曼荼羅まで、575枚の絵が天井を彩る) |
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五ッの真言 | 鐘楼 | 開山堂 | 子安観音 | 修行大師 |
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不動明王像 | 独鈷杵 | 納経所 | 宿坊・売店 |
Kongoufuku_ji 2017.12.10
参拝
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◆ 三十七番から三十八番へは、窪川を出て中村市を経て、四国第二の大河四万十川を渡り土佐清水市から足摺岬の頂上に達する120kの道、札所から札所への距離は八十八ヶ所中で最も長い。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳の頃といわれる。縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに三面千手観音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名、金剛杵ともいう。また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となっていたが、武将からも尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。
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仁王門 | 仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 境内からの仁王門 | ||||||||||||
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本堂 | 大志堂 | 鐘楼堂 | 権現堂 | 行者堂 |
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護摩堂 | 修行大師様 | 修行大師様 | 多宝塔 | 大師亀 |
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手水場 | 納経所 | 三界萬霊塔 | ||
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本坊・客殿 | 石のオブジェ | 十三仏 | 石のオブジェ |
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足摺岬展望所 | 足摺岬 ジョン万次郎案内 | ジョン万次郎銅像 | 土佐偉人銅像案内図 | 足摺岬周辺観光案内図 |
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Enkou_ji 2018.6.25 参拝
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◆ 土佐の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からによると、時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。ここ宿毛はかって土佐の執政・野中兼山の失脚により一族が流罪となり寛文4年(1661)から40年間幽閉生活を送った。縁起は神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。
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仁王門 | 密迹金剛 | 那羅延金剛 | 日本遺産「四国遍路」延光寺 | 延光寺略記 |
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本堂 | 大志堂 | 鐘楼 | 手水舎 | 新西国霊場本尊奉安所 |
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目洗い井戸 | 境内から見る山門 | 修行大師様 | 子安地蔵 | |
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独鈷杵 | 納経所 | 庭園 |
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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」