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ベイシー写真館

■四国88ヶ所霊場

土佐の霊場(修行の道場)其の弐 32番〜39番

三十二番札所「禅師峰寺」 Zenjibu_ji   2017.10.9 参拝

三十二番札所禅師峰寺

寺名称八葉山 求聞持院 禅師峰寺(はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ)
住所高知県南国市十市3084
開基・創建行基菩薩・大同2年(807)
宗派真言宗 豊山派
御本尊十一面観世音菩薩(経尋作)
本尊真言おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌静かなるわがみなもとの禅師峰寺 浮かぶ心は法の早船
御朱印

◆ 禅師峰寺のあるこの山は観世音の補陀洛山”理想の山”に似ていて八葉の蓮台の形をしていることから、大同二年(807)弘法大師が巡ヨウして八葉山の山号をつけ、自作の十一面観音を安置し、霊場とした。仁王門の金剛力士二体は仏師定明の作で、「願主蓮月房良慶 仏師定明 正応四年辛卯月日」と銘があり、鎌倉時代に制作されたものとして重要文化財に指定されている。門をくぐって境内に入ると参道の右側は黒と灰色の縞模様奇岩が並んでいて補陀洛への道はかくやと思わせる珍しい参道である。歴代の土佐藩主は甲浦出港の際、必ずここに詣でて海路安全を祈願したので、この本尊は”船魂(ふなだま)の観音”と呼ばれている。境内から望むと、はるか彼方に月の名所の桂浜が、柔らかい曲線を描いて美しい曲線をみせている。

三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛禅師峰寺縁起四国遺産「禅師峰寺」
三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺
境内への自然石の石段石段右の奇岩が続く本堂大志堂十一面観世音菩薩
三十二番禅師峰寺
禅師峰寺から望む遠景、中央右奥に桂浜が望めます
三十二番禅師峰寺 三十二番禅師峰寺 禅師峰寺 禅師峰寺
修行大師像鐘楼手水舎長宗我部信親の墓

三十三番札所雪蹊寺 Sekkei_ji   2017.10.9 参拝

三十三番札所雪蹊寺

寺名称高福山 雪蹊寺(こうふくざん せっけいじ)
住所高知県高知市長浜857-3
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派臨済宗 妙心寺派
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌旅の道うえしも今は高福寺 のちのたのしみ有明の月
御朱印

◆ 種崎から浦戸大橋を越えて野中兼山ゆかりの新川橋から右折して東に行くと城山の南山麓に雪蹊寺がある。寺に山門は無く石柱の門を入ると鐘楼が建ち、正面に本堂、右大志堂、左に観音堂などがならんでいる。弘法大師の開創で何度か名を改め元親公の菩提寺となってからその法名雪蹊恕三大居士にちなみ小林山雪蹊寺となった。雪蹊寺の縁起は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名のったのもこうした由縁で、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺
雪蹊寺山門本堂大志堂手水舎・休憩所鐘楼
三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺 三十三番雪蹊寺
観音堂納経所近くの長宗我部墓所にある雪蹊寺案内

秦神社 秦神社 長浜城跡 長宗我部盛親公慰霊碑 戸次川の戦い戦没者
秦神社秦神社長浜城跡長宗我部盛親公慰霊碑戸次川の戦い戦没者
西宮神社 西宮神社
西宮神社西宮神社

長宗我部元親墓所

長宗我部墓所 長宗我部墓所 長宗我部墓所 長宗我部墓所 長宗我部墓所
長宗我部元親の墓長宗我部元親の墓案内長宗我部元親の墓長宗我部元親の墓長宗我部元親説明
長宗我部墓所
戦没将士の碑

三十四番種間寺 Tanema_ji   2017.10.9 参拝

三十四番種間寺

寺名称本尾山 朱雀院 種間寺(もとおざん しゅじゃくいん たねまじ)
住所高知県高知市春野町秋山72
開基・創建弘法大師・弘仁年間(810〜824)
宗派真言宗 豊山派
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌世の中にまける五穀のたねまでら 深き如来の大悲なりけり
御朱印

◆ 敏達天皇の六年(577)に、百済の国の皇子が仏師、仏工らを同行して来日、大阪の四天王寺を造営したが本国に帰航の途中、暴風雨に遭い、この近くの湾に避難した。そこで海上安全を祈って薬師如来を彫ってここへ置いて帰った。やがて弘法大師がその薬師如来像を本尊として三十四番を開創したその際大師は唐から持ち帰った五穀の種子(米・麦・あわ・きび・豆)をこの地にまかれたので、この寺を種間寺と名付けたという。天暦年間(947〜57)には、ときの村上天皇(在位946〜67)が「種間」の勅額を下賜され、また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われている。ただ、やはり廃仏毀釈の難では、容赦がなかった。 本尊は「安産の薬師さん」で、また、底の抜けた柄杓に人気があり、信者が多い。

三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺
三十四番種間寺石柱入口本堂大志堂子育地蔵
三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺
修行大師像子育観音手水舎鐘楼古い手水鉢
三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺
さわり大黒修行大師像沙羅双樹の樹しだれ赤松しだれ桜
三十四番種間寺 三十四番種間寺 三十四番種間寺
弘法大師尊像納経所本坊

三十五番札所清滝寺 Kiyotaki_ji    2017.12.10  参拝

三十五番札所清滝寺

寺名称醫王山 鏡池院 清滝寺 (いおうざん きょうちいん きよたきじ)
住所高知県土佐市高岡町丁568-1
開基・創建行基菩薩・養老7年(723)
宗派真言宗 豊山派
御本尊厄除薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌澄む水を汲むは心の清瀧寺 波の花散る岩の羽衣
御朱印

◆ 土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころである。清滝寺は寺伝によると、養老七年(723)行基菩薩がご本尊の薬師如来を刻み寺を開創、景山密院繹木寺と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ本堂から300mの山中で17日間修法され、満願の日に金剛杖で大地を突くと清水が湧き出て鏡のような池になった。そこで医王山鏡池院清滝寺に改め、霊場に定められた。この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。

三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺
仁王門密迹金剛本堂本堂軒の彫刻大志堂
三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺
厄除け薬師如来立像手水舎護摩堂
三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺
本坊山門本坊・庫裡鐘楼納経所修行大師像
三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺 三十五番清滝寺
平和観音境内からの土佐市街麓からの清滝寺隣接する琴平神社

三十六番札所青龍寺 Syoryu_ji    2017.12.10 参拝

三十六番札所青龍寺

寺名称独鈷山 伊舎那院 青龍寺(とっこうざん いしゃないん しょうりゅうじ)
住所高知県土佐市宇佐町竜163
開基・創建弘法大師・弘仁6年(815)
宗派真言宗 豊山派
御本尊波切不動明王
本尊真言のうまくさんまんだ ばざらだんせんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
ご詠歌わずかなる泉にすめる青龍は 仏法守護の誓いとぞきく
御朱印 青龍寺御朱印

◆ 宇佐大橋から見る湾の景色は素晴らしい。橋が出来るまでは市営の発動機船での渡し船で、弘法大師も青龍寺を開く時、船で渡り8人の共を井之尻に残し、その子孫がこの渡し船を守ってきたと言われている。弘法大師は中国唐に留学中、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵(とっこしょ)を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。帰国した大師はこの地を巡教して独鈷杵を感得し、弘仁六年(815)嵯峨天皇に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。

三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺
仁王門日本遺産「四国遍路」
青龍寺
参道石段三重塔手水舎
三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺
本堂大志堂聖天堂水子地蔵尊薬師如来堂
三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺
不動明王像不動明王像恵果あじゃり堂修行大師像
三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺 三十六番青龍寺
納経所本坊多宝塔青龍寺案内隣接する白山神社

三十七番札所岩本寺 Iwamoto_ji    2017.12.10 参拝

三十七番札所岩本寺

寺名称 藤井山 五智院 岩本寺(ふじいさん ごちいん いわもとじ)
住所高知県高岡郡四万十町茂串町3-13
開基・創建行基菩薩(寺伝)・天平年間(729〜749)(寺伝)
宗派真言宗 智山派
御本尊千手観世音菩薩
本尊真言不動明王: なうまく さんまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そはたや
うん たらた かんまん
観世音菩薩: おん あろりきゃ そわか
阿弥陀如来: おん あみりたていぜい から うん
薬師如来: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
地蔵菩薩: おん かかか びさんまえい そわか
ご詠歌六つのちり五つの社あらわして ふかき仁井田の神のたのしみ
御朱印 岩本寺御朱印

◆ 窪川の町の山を越えた海抜320mの台地、いわゆる高南台地に岩本寺がある。開基は行基菩薩で、聖武天皇の勅を奉じ、仁井田明神のかたわらに建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身である。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置し、自ら星供曼荼羅を書写して星供秘法を修し藤井寺五徳智院と号した。八十八ヶ所中、他のお寺は仏様が何体あってもお脇立てであるが、当寺だけは五体全部が本尊である。
また伝説として当寺は”岩本七不思議”が昔から伝わっている。

三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛日本遺産「四国遍路」
岩本寺
仁王門
三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺
本堂大志堂静流殿歓喜天(聖天堂)手水舎
三十七番岩本寺
本堂内陣の格天井画(全国から公募の花鳥風月から人間曼荼羅まで、575枚の絵が天井を彩る)
三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺
五ッの真言鐘楼開山堂子安観音修行大師
三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺 三十七番岩本寺
不動明王像独鈷杵納経所宿坊・売店

三十八番札所金剛福寺 Kongoufuku_ji    2017.12.10 参拝

三十八番札所金剛福寺

寺名称蹉?山 補陀洛院 金剛福寺 (さださん ふだらくいん こんごうふくじ)
住所高知県土佐清水市足摺岬214-1
開基・創建弘法大師・弘仁13年(822)
宗派真言宗 豊山派
御本尊三面千手観世音菩薩
本尊真言おん ばざらたらま きりく
ご詠歌ふだらくやここはみさきの船の棹 とるもすつるも法の蹉?山
御朱印 金剛福寺御朱印

◆ 三十七番から三十八番へは、窪川を出て中村市を経て、四国第二の大河四万十川を渡り土佐清水市から足摺岬の頂上に達する120kの道、札所から札所への距離は八十八ヶ所中で最も長い。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳の頃といわれる。縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに三面千手観音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名、金剛杵ともいう。また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。歴代天皇の勅願所となっていたが、武将からも尊崇された。とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。

三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
仁王門仁王門密迹金剛那羅延金剛境内からの仁王門
三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
本堂大志堂鐘楼堂権現堂行者堂
三十八番金剛福寺
三十八番金剛福寺
三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
護摩堂修行大師様修行大師様多宝塔大師亀
三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
手水場納経所三界萬霊塔
三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
本坊・客殿石のオブジェ十三仏石のオブジェ

三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺 三十八番金剛福寺
足摺岬展望所足摺岬
ジョン万次郎案内
ジョン万次郎銅像土佐偉人銅像案内図足摺岬周辺観光案内図

三十九番札所延光寺 Enkou_ji     2018.6.25 参拝

三十九番札所延光寺

寺名称赤亀山 寺山院 延光寺(しゃっきざん じさんいん えんこうじ)
住所高知県宿毛市平田町中山390
開基・創建行基菩薩・神亀元年(724)
宗派真言宗 智山派
御本尊薬師如来
本尊真言おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
ご詠歌南無薬師諸病悉徐の願こめて 詣る我が身を助けましませ
御朱印 延光寺御朱印

◆ 土佐の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からによると、時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。ここ宿毛はかって土佐の執政・野中兼山の失脚により一族が流罪となり寛文4年(1661)から40年間幽閉生活を送った。縁起は神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺
仁王門密迹金剛那羅延金剛日本遺産「四国遍路」延光寺延光寺略記
三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺
本堂大志堂鐘楼手水舎新西国霊場本尊奉安所
三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺
目洗い井戸境内から見る山門修行大師様子安地蔵
三十九番延光寺 三十九番延光寺 三十九番延光寺
独鈷杵納経所庭園
三十九番延光寺

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参考文献:徳島新聞社刊「四国霊場の旅」