■板東俘虜収容所
■四国88ヶ所霊場
■メインメニュー
■徳島県の他の古城跡
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|
今日のルートマップ | 約4kの行程 約80人で2班に分かれてイザッ出発 | 腰が痛いので最後尾から就いていきます |
第一次世界大戦において日本は日英同盟に基ずき連合国の一員として参戦した。1914年8月23日大日本帝国はドイツ帝国へ宣戦布告。陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、わずか3ヶ月の戦闘で青島要塞は陥落降服した。俘虜となったドイツ兵士4700名余が北海道を除く全国各地へ振り分けられたが、最終的に丸亀・松山・徳島・久留米の収容所から953名が送られ約2年10ヶ月間収容した。当時捕虜に対する人道的な扱いを定めた1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定や、収容所長の松江豊寿陸軍中佐の人道的な扱いにより日本では最も有名な俘虜収容所として知られている。収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人等様々であった。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。
![]() |
![]() |
---|---|
ドイツ橋 | めがね橋 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
ドイツ橋の案内 | 石柱、中央が漢字で独逸橋 左が独語で 右が平仮名 | 四国の道標柱 | めがね橋、奥の池 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
神社大鳥居 | 板東谷川に架かる祓川橋 | 神社御由緒 | 本拝殿 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
授与所 | 手水場 | 御神木樹齢千年の楠 | 鳴門市指定天然記念物「楠」 |
霊山寺境内での捕虜による演奏会
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
本堂 | 太子堂 | 多宝塔 | 明治の庭 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
不動明王十三仏 | 三鈷松 | ばんどう門前通り | ばんどう門前通り標柱 |
収容所全景
![]() |
![]() |
---|---|
板東俘虜収容所跡入口、実際は此処から西約50m | 当時の収容所入口古写真 |
![]() |
![]() |
復元された劇場(阿波大正浪漫 バルトの庭) | 復元された製パン所(阿波大正浪漫 バルトの庭) |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
元の正門跡 | ここが第九初演の地 | 製パン所 | 製パン所基礎部分 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
現存する小屋のレンガ積 | 収容所跡説明板 | 兵舎第5棟基礎址 | 讃岐レンガ製造業者の刻印 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
友愛の碑 | ドイツ橋を模したアーチ橋 | 阿波のまほろば | ドイツ語で書かれた標識 |
![]() |
![]() |
---|---|
ダックスフンドの彫像、当時の兵士が戦場から連れてきた2匹のダックスフンドがいたという話があるが、これは当時からのものか近世かは不明 | 第一次世界大戦の 日本での捕虜生活の内に没した兵士の慰霊碑 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
ドイツ人俘虜慰霊碑 | デュセルドルフからの 菩提樹贈呈の碑 | 会津若松市より 赤松贈呈の標柱 | 赤十字ゆかりの地記念碑 |
両館とも館内は撮影禁止となっており残念乍ら写真はありません
![]() |
![]() |
---|---|
ドイツ館 | 賀川豊彦記念館 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
移築されたバラッケ (現在道の駅) | ドイツ人彫刻家ペーター クッセル氏製作の ベートーベン像 | 陶板製の第九演奏会の模様 | ばんどうの鐘 |
1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。陸軍では順調に昇進を重ね、日清・日露戦争にも従軍した彼は1914年(大正3年)1月には陸軍歩兵中佐となり、徳島歩兵第62連隊付となる。同年7月に第一次世界大戦が勃発。青島の戦いで日本軍に降伏したドイツ軍俘虜は、徳島や大阪など全国12ヶ所の収容所へ振り分けられた。それと同時に松江は同年12月徳島俘虜収容所長に任命される。ここにおいて松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許した。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれる。1920年4月、第一次大戦終了に伴い板東俘虜収容所は閉鎖された。だが、俘虜たちは解放された後もここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような(素晴しい)俘虜収容所長がいただろうか」と語るほどだったと言う。 wikipaddiaより抜粋
![]() |
![]() |
---|---|
松江豊寿陸軍中佐 | 松江所長住居跡地に建つ記念碑 (阿波銀ホール西側) |
Copyright © 2015 copyrights.basie.mobi All Rights Reserved.