▲TOPへ戻る

アクセスカウンター
  歴史の四方山話を書いていきます。   写真は全てクリックすると拡大します           ホームに戻る

 阿波の烈女、小少将(大形殿)とは


写真は歴史小説「小少将」郷土小説家中川静子著
 小少将とは女性の愛称であり名前ではありません。長い歴史の中で登場するのは8名程おりますが、
今回は「絶世の美女」と言われた岡本美作守牧西の娘です。
 徳島藩、江戸時代中後期の儒者、佐野山陰の『阿波誌』に依ると天文年間(1532〜1555)、岡本美作守は阿波守護の家臣として100貫で西条東城主(後の阿波九城、城代は森春之・森監物)となり9代当主細川持隆に仕えています。天文年間の始め頃、細川持隆の目に一人の美しい娘の姿が止まり、これが岡本美作守の娘、小少将です。細川持隆には正室が居て、小少将は寵愛を受けて側室となりました。そして、1538年最初の男子となる細川真之(さねゆき)を産みました。1549年、細川本家の室町幕府管領・細川晴元が三好長慶に敗れると細川家は没落。そして、平島公方の足利義冬を将軍にしようと京都入りをはかったため、1553年、反対派の三好長慶の弟・三好実休が、見性寺にて細川持隆を自害に追い込みました。しかし、細川持隆が殺害される前に、既に小少将は三好実休に通じており、子を宿していたと言われています。
小少将の子である細川真之が、阿波・細川家の家督を継ぎました。なお「昔阿波物語」「三好記」などによると、細川家の実権は三好実休が握っており、細川真之は傀儡として擁立されたとあります。そして、三好義賢は小少将を強奪して、自分の継室にしたと言われています。要するに、細川家を牛耳るために、三好義賢が細川真之の養父になったとも受け取れるが、すぐの1553年に小少将は三好長治を産みました。翌年1554年には、十河存保、そして、安宅家を継承した安宅神五郎と、小少将は三好実休との間に3子をもうけたと言う事になります。小少将は、家中にて大形殿(正室の意味)と呼ばれ、三好実休からも寵愛を受けたようです。1562年、足利義輝派であった畠山高政・六角義賢と、大坂久米田の戦いにて、三好実休が討死すると、多くの家臣が仏門に入った様に、岡本清宗は岡本入道牧西と改名して主君の死を悼み、岡本牧西と称されるようになったわけです。 その後、小少将は、三好家の木津城主・篠原自遁(じとん)の妻となった様です。この時、家督を継いだ三好長治はまだ8歳で、篠原長房、篠原自遁と、板西城主・赤沢宗伝ら三好家の重臣が補佐しました。特に、篠原自遁の兄とされる上桜城主・篠原長房は宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によるとこの頃、三好三人衆以上に勢力を有し、彼らを管轄したのは篠原長房で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった
「三好記」に依ると、小少将は1571年に長房が阿波へ帰国した前後から、篠原自遁と通じあう仲となり、篠原長房を疎んじるようになり、これは、主君・三好長治の生母を妻にすると言う篠原自遁の行為は、。篠原長房にとって自分の立場も悪くしかねないと考えたようです。これを咎めたため、小少将や三好長治より蟄居を命じられ、長房は上桜城に籠ります。そして、謀反の疑いを掛けられたようで、篠原自遁が三好長治に讒言し、これを信じた三好長治は軍勢を差し向けます。1573年6月、三好長治(20歳)は、十河存保(21歳)を総大将として細川真之(34歳)ら、小少将の子供たちが、10000にて上桜城を攻め、上桜城の戦いとなりました。1500の篠原長房は良くしのぎましたが、最後の突撃を敢行して家族を逃がすと討ち取られています。写真は篠原紫雲長房父子の首塚
 この戦いの後、三好家の家臣らは離反が相次ぎ、長宗我部元親による阿波国侵攻となります。そして、傀儡であった細川真之もこの機を逃さず、1577年に小笠原成助や、長宗我部元親の助力を得て、三好長治を阿波・荒田野の戦いにて打ち破りました。そして長春を松茂の長原で自害に追い込みます。
写真は三好長春終焉の地、松茂長原の史跡
三好家の家臣らは、十河城主の十河存保を擁立して、勝瑞城に迎え、十河存保が三好家の実質的な当主となり、織田信長に従属しています。篠原自遁は、十河存保の三好家相続に反対していましたが、十河存保が勝瑞城へ入城する際には先導役となっています。1582年、長宗我部元親が阿波へ侵攻した際にも、十河勢として篠原自遁は出陣しましたが中富川の戦いには参じていませんので、長曽我部の軍門に下ったともされています。その後、阿波・木津城から退いて、淡路へ落ち延びたとも言われています。ここで、小少将の足跡は不明になりましたが、小少将の年齢は60歳位と思われます。
 尚、文献には長宗我部元親の側室に、小少将と言う女性の名が見受けられます。この小少将は元親の子・長宗我部右近太夫を1583年に産んだと言われていますが年齢60歳位とすると多少無理がある様に思われます。しかし、再婚を繰り返した小少将は自らの意思で鞍替えしていたともされていますので、あながち無理な話とも言えない気がします。

 真田十勇士の三好清海入道ってあの三好三人衆の三好政康がモデル?

 写真は左から三好長逸、岩成友通、三好宗渭の花押の連署(東寺百合文書より、wikipeddia)

 三好三人衆とは三好長慶亡きあと甥の三好義継は年若で、三好実休等、弟達も死去していたため、義継の後見役としてこの3名が台頭した。三好三人衆といえば永禄8年、長慶の死に乗じて将軍親政を復活させようとした室町13代将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。後に篠原長房・三好康長や筒井順慶と組んで義継や久秀と対立、これは三好政権の混乱の一因となり、足利義昭を擁立する尾張の織田信長を利する結果となった。永禄11年(1568年)、信長の上洛に反発し抵抗するも相次いで敗退し、三人衆の勢力は衰える。永禄末には宗渭(政康)が病没、天正年間には友通が戦死し、程なく長逸も消息不明の状態となり、畿内における三好氏の勢力の衰退と前後して三人衆としての活動は完全に途絶えた。
一方、真田十勇士は戦国末期から活躍した講談で親しまれ、立川文庫でブームを呼んだ真田幸村に仕えたとされる10人の家臣からなるキャラクターである。あくまで伝承上の架空の人物であるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人だがあくまで全て立川文庫の創作上の人物、中でも三好清海入道は身長2mの大男、三好宗渭(政康)も身長6尺5寸と伝えられているので共通点はそれと苗字だけかな?

 名町奉行、東の大岡越前、西の柏木友諒

 写真は阿波藩名町奉行、 柏木原人友諒の墓(丈六寺)

 阿波藩に柏木原人友諒(もとめ ともまさ)という町奉行であり医者がいた。
阿波の"大岡越前守"と言われた人物で人情味があって、ユーモア精神に富んでいたそうである。

●ある日藩の米を扱う人夫が米俵を盗んで家に持ち帰り見つかった。柏木はその男を呼び出して言った。「禁漁区で網を洗うな、人が見ると魚を採ってるように見えるぞ」
●ある時藩主が柏木に聞いた。「ヒゲがのびて困る。うまい方法はないかな」柏木は答えた。「顔に焼火箸をおあてになるといいでしょう」柏木にすれば、町奉行の職にあるものに、くだらんことを聞くな、ということだ。
●同じく、藩主が壊れた時計を柏木に渡し、「修理してくれ」と言った。柏木はすぐに時計をオノで砕いてしまった。藩主が驚くと、柏木は言った。「私は町奉行です。時計の修理屋ではありません」
●柏木が家人に「本の土用干しをしておいてくれ」と頼んで登城した。昼頃、急に夕立がきて、本はみんな濡れてしまった。家人がどんなカミナリが落ちるかとビクビクしていると、柏木は笑って言った。「夕立のことをいいおいて行かなかったものな」
                                童門冬二著「名将に学ぶ人間学」より


 私の住む地(字)名、逆藤の由来    写真はクリックすると拡大します

小松島勢合
小松島勢合
熊山城跡
熊山城跡
田林寺営跡
田林寺営跡
新居見城跡
新居見城跡
広長城跡
広長城跡
西光屋敷跡
西光屋敷跡
桜間城跡
桜間城跡
福成寺
福成寺

 私の住む字名逆藤(さかふじ)という地名は調べてみると実話か伝説かは定かではありませんが面白い話が残っています。
文治元年(1185)源義経が屋島の平家を倒すため、阿波の小松島勢合に上陸来攻した。義経は平家に恨みのある近藤六親家(小松島新居見城主、治承元年(1177)、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者で平清盛に惨殺された西光法師「阿波市広長城主藤原師光」の六男)の案内で、平家方桜庭介良遠の籠る熊山城(本庄城)・田林寺営(勝浦城)を攻め、続いて石井桜間城を落とした。弁慶は阿讃越えの前に負傷者の手当てのため藍住町住吉の福成寺へ立ち寄り、後から来る義経への目印にと福成寺の境内に馬の鞭に使っていた藤の木を逆さまに突き刺した。その藤の木が成長し大きくなり逆藤という地(字)名が残ったそうである。因みに藤の木は江戸期に枯れたそうだが新たに植えられることはなかった。
皆さんもご自分の住む地名の由来調べてみませんか。

 徳島の生んだ幕末の剣豪

 
 柏尾馬之助(写真右の若衆髷、番傘の人)は1838(天保9年)美馬郡貞光町(現つるぎ町)に蜂須賀家臣、柏尾嘉蔵の次男として生まれた。
北辰一刀流剣術桶町千葉道場で千葉定吉の門弟となり、北辰一刀流剣術大目録皆伝を授けられる。
同期同門に坂本龍馬がいた。
文久3年、尊皇攘夷急進派団体の中心人物、清河八郎・山岡鉄舟らは「浪士組」を結成。文久3年2月3日、浪士(浪人)を含む1,000名以上の中より234名の手練が松平忠敏、山岡鉄舟らにより選抜され、即日江戸を出て、村上らと同じ浪士組六番隊で中山道を上洛。柏尾は小頭役も勤めた。道中、宿の手配のため先行していた近藤勇・土方歳三・沖田総司ら天然理心流試衛館一派や、芹沢鴨ら水戸攘夷過激派も六番隊に合流した。壬生村宿割では、柏尾・村上らは壬生村会所、芹沢・近藤らは八木家と分かれて宿をとっていたが、幕府の意表を突く、清河の尊皇攘夷の上書が朝廷に受理され、朝廷の勅諚を受けた浪士組は、同年3月に京都を出立して江戸へ帰府する。しかし同じ六番隊ではあるが、幕府への裏切りとも取れる清河の行動に反発した近藤・芹沢ら主に八木家宿泊組らは、壬生村に残ることとなり、袂を分かった。壬生村に残った浪士組隊員は壬生浪士組は、後に新撰組となる。清河がすでに攘夷強硬派の急先鋒としていた浪士組を、尊王・倒幕運動の切札に使うと危惧した幕府は、佐々木只三郎ら刺客を差向け、麻布にて清河を暗殺した。前後して虎尾の会出身者は村上・石坂ら多くが捕縛され、浪士組は解体された。清河殺害から浪士組は幕府により再編され、同年に江戸市中の治安機関・新徴組として生まれ変わる。柏尾は新徴組結成初期から組頭や肝煎役を勤めていたが、同年6月に200余名の全隊員で行われた撃剣試合を勝ち抜き、新徴組剣術教授方にも任命される。同郷の山田官司(新徴組取締役・剣術教授方)に代わり隊員に稽古を付ける傍ら、実動隊としても二番隊肝煎役などとして江戸市中の警戒業務も担っていた。 前述の通り剣術は、北辰一刀流剣術大目録皆伝(俗に言う免許皆伝)と白眉の腕前。極めて優れた剣士として評価されていた上、人間的にも実直な人柄で剣術の指導や隊の統率にも優れており、新徴組では剣術教授方代稽古に加え隊の肝煎役を、北辰一刀流では剣術道場を任されるほどだった。元治元年に、新徴組が庄内藩預かりとなり、庄内藩の佐幕強硬派からの影響で、新徴組が次第に佐幕へと傾向を強めると、新徴組を脱隊した。脱隊前より庄内藩穏健派や、幕府の元軍艦奉行で公武合体派の勝海舟、桶町千葉道場同期同門の海援隊・坂本龍馬らとも懇意であった上に、庄内藩改革派や公武合体派、攘夷派も剣の腕前や人柄を頼りに柏尾に接近、彼らに維新の志士として力を貸すこととなる。幕府佐幕派や庄内藩保守強硬派に批判的な脱退だったこともあり、自身の身も危うい立場だったにもかかわらず、庄内藩穏健派や幕府穏健派、攘夷派の要人警護を行ったり、尊皇攘夷派、討幕派、勤皇派武士を匿ったりしている。晩年には病の養生のため、阿波(美馬郡貞光)へ帰郷した。明治元年(慶応4年、1868)4月8日没。近代の幕開けとほぼ同じくして30歳で人生に幕を下ろしたそうである。
                                 (Wikipediaより)

 阿波出身、新選組の隊中美男五人衆の一人、馬越三郎

  イラストは馬越本人とは関係ありません、勝手なイメージです。
  子母沢寛氏の『新選組物語』の中に、新選組には『隊中美男五人衆』と呼ばれるのがあったそう。
その五人は『同志連名記』の中に次のように出ている。 
    ・ 京都浪士 平同士 楠小十郎
    ・      平同士 馬越三郎
    ・      平同士 山野八十八
    ・ 大坂浪士 平同士 佐々木愛次郎
    ・      平同士 馬詰柳太郎
中でも馬越三郎が16歳の時にあまりの美男ぶりに、隊士の五番隊組長(文学師範)である武田 観柳斎がしつこく言い寄ってきたのを困ったので馬越が副長の土方歳三に訴えたのと観柳斎が実は薩摩藩の間者であると密告した。武田は粛清されたが、武田にも仲間がいたらしく隊には居ずらくなり土方は馬越に手当を与えて郷里の阿波へ帰した。新選組が正式に脱退を認めた唯一の例外処置だそうである。
※五人の美男が隊内に実在したのは確かだが、実際に『隊中美男五人衆』という呼称があったかどうかは確かではない。

 幡随院長兵衛と対立した旗本奴水野十郎左衛門

水野成之(水野十郎左衛門)は父が旗本水野成貞、母が蜂須賀家初代藩主至鎮の娘、萬の方の長男として生まれた。十郎左衛門は「旗本奴」の代表格だった。家人らを率いて目立つ装いで伊達男を気取り江戸市中に繰り出し、イキがってやりたい放題をしたアウトロー、いわゆる「傾奇者(かぶきもの)」である。旗本奴は現在の族とかヤンキーとかとは違って、家柄のいいボンボンだった。成之の父、成貞は備後福山10万1000石の大名となった徳川家随一の猛将として知られた水野勝成(みずの・かつなり)、の三男で最終的に3000石の旗本となった水野成貞である。母はというと一説にはこういう旗本奴の姿をお忍びで観に行った、そして25万7千石の大名蜂須賀家の姫が一目惚れして30人扶持の終身持参金付きで押しかけ女房となったそうである。そうした「旗本奴」に対して、町人身分で同様にイキがってたのが「町奴」であり、その代表格が幡随院長兵衛だった。芝居では、十郎左衛門の手下が歌舞伎の村山座の花道で狼藉をはたらき、それを長兵衛に退治される。手下が町人ふぜいにやっつけられて面目を失った頭の十郎左衛門は長兵衛に詫びるという口実で自宅での藤見の宴に招く。そこで殺されることが解りきってたのだが、長兵衛は「怖がって逃げたら男が廃る」と見栄をきって殺されにいく。成之はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代(さかやき)を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして若年寄 の土屋数直の命により即日切腹となった。十郎左衛門は蜂須賀家に脇差の名刀貞宗を所望した。しかし反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、贈られた貞宗で右膝を突き刺し、「これならよく斬れるべえ」と検視役の前で見栄を切ってからそのまま股まで斬り裂いていき、腹を斬り上げ、さらに左脇腹まで掻っ捌き、不敵な笑みを浮かべて介錯されたという。切腹の作法までも型破りにしたのだった。

辞世の句・・・落とすなら地獄の釜を突ん抜いて阿呆羅刹に損をさすべい
俺を咎人として地獄へ落とすというのなら、そいじゃあ罪人を煮るという地獄の釜をこの貞宗で突ん抜いてくれるわ。地獄の木っ端役人にも損害を被らしてやるぞ、この野郎!
いやはやなんとも幕府に対して徹底した反骨精神である。