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■徳島県の他の古城跡
阿波市 西条東城(さいじょうひがしじょう)
阿波九城(西条城)参照
土成町 秋月城(あきずきじょう)
![]() | 平山城 |
![]() | 市指定史跡 |
![]() | 徳島県阿波市土成町秋月 |
![]() | 237m×356m |
![]() | この城は南北朝期に、四国大将、四国管領として四国の守護に号令した細川氏の拠点である。建武3年(1336年)足利尊氏が京都での戦いに敗れて九州へ落ちる途中、再起を期して一族の細川和氏と細川顕氏らは四国へ渡り兵を募った。秋月城は地元の豪族秋月氏に迎えられてこの城を築き居館した。和氏のあと弟細川頼春、子の細川頼之らが居城したが、貞治2年(1363)頼之の弟詮春は藍住勝瑞城に移った。その後は秋月氏一族がこの城を守っていたが長宗我部の侵攻により落城。 |
![]() | 建武3年(1336) |
![]() | 細川和氏(かずうじ) |
![]() | 森飛騨守 |
![]() | 現在、秋月城歴史公園として阿波市指定史跡に指定されている。 |
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秋月城跡公園入口案内 | 秋月城跡石碑 | 秋月城跡石碑 | 細川和氏の墓 |
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一緒に祀られている秋月城主及戦没将士の墓等の墓石群 | 安国寺跡石碑 | 安国寺跡石柱 | 和氏作護煕書と 書いてあります |
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安国寺跡 | 安国寺跡の上方にある溜池 この上が本丸なので堀跡かも | 安国寺跡から南を望む | 秋月城跡 作図:田所眉東氏1936年 |
土成町 原田城(はらだじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 吉田城 |
![]() | 市指定史跡 |
![]() | 徳島県阿波市土成町吉田字北門 |
![]() | 薬師寺阿波守政村は、承久の乱後、武蔵の国府(現在の東京府中市)から入国した。城の面積は540aの広さで相当大きな城だったことが伺える。 |
![]() | 承久3年(1221)頃 |
![]() | 原田右亮義実 |
![]() | 城跡は高速徳島道土成インター南の交差点を西へ約200mの処の民家のスグ横、土成町が建てた石碑があります。撮影するには完全に不法侵入になるのでお家の方に許可をもらって撮りました。周りは住宅密集地で偲ぶ面影は一切なし。 |
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土成町の建てた原田城跡 | 民家の西側にあります |
土成町 郡城(こおりじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 市指定史跡 |
![]() | 150m×100m |
![]() | 徳島県阿波市土成町郡・市場町伊月 |
![]() | この柿原氏は貞治元年(1362)の白峰合戦に細川頼之の部下として参加し細川清氏に討たれた柿原孫四郎の子孫。その後永享年間(1429〜41)原田大和守信久がこの城に拠った。その後上桜の合戦で篠原長房の部下として加わり柿原源吾ら一族と共に滅んだ。城跡地は城ノ内という地名が残る。 |
![]() | 南北朝期 |
![]() | 柿原孫四郎 |
![]() | 善入寺川が吉野川へと流れ込む河口の西手、堤防すぐ下に石碑がある。 |
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土成町の建てた郡城遺跡 | 郡城遺跡 | 郡城の偲往昔石板 | 北側堤防上より | ![]() |
市場町 切幡城(きりはたじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 市指定史跡 |
![]() | 90m×100m |
![]() | 神ノ木城・山野上北城 |
![]() | 徳島県阿波市市場町切幡字神ノ木 |
![]() | 鎌倉末期に小笠原長直がここに館を築いた。永禄・元亀の頃森飛騨守高次がこの城に入ったが天正7年(1579)脇・岩倉の合戦で戦死。 |
![]() | 永禄年間(1558〜70) |
![]() | 森飛騨守高次 |
![]() | 城跡は柿ノ木谷川と観音谷川が交わる扇状地で城跡推定地の北に鎮守明神があり、その北西隅に森氏末裔が建てた石碑がある。 |
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切幡城跡 | 切幡城跡 | 鎮守明神 | 城跡から見た10番札所切幡寺 |
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市場町 山野上城(やまのうえじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 仏殿城・細川隠居城 |
![]() | 40m×80m |
![]() | 徳島県阿波市市場町山野上字中山 |
![]() | 阿波秋月城に拠点を置いた細川和氏を継いだ細川頼春は吉野川南岸の南朝方に備えて城を築いた、秋月城の支城である。また城の東北に梵光寺を建立して鬼門の鎮めとした、後に仏殿庵と称したので仏殿城とも呼ばれた。戦国期の終わりの永禄年間(1558〜70)に原田備後守秀兼がこの城主になった。秀兼の子久右衛門は天正10年の長宗我部の侵攻により戦死。 |
![]() | 永禄年間(1558〜70) |
![]() | 原田備後守秀兼 |
![]() | 城跡は市場町山野上の段丘面先端に位置して当時は南が断崖、東西北は濠に囲まれていたそう、城跡南端から見ると当時は吉野川南岸も良く見渡せるし城の立地としては最高である。西約0.8kには立地環境が同じような香美城があり、北1.7kに秋月城がある。北東約500mの処に、仏殿城の由来となった梵光寺(仏殿庵)がある。 |
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山野上城跡 | 山野上城跡 | 北側曲輪跡 | 南側曲輪跡 |
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改修された古井戸 | 仏殿城の由来となる 仏殿庵(梵光寺) | 町指定史跡、梵光寺 |
市場町 香美城(かがみじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市市場町香美字郷社ノ本 |
![]() | 80m×100m |
![]() | 藩政期の『城跡記』では香美城主、香美馬之亮天正10年(1582)長宗我部元親の侵攻による中富川の合戦で戦死。 |
![]() | 戦国期 |
![]() | 香美馬之亮 |
![]() | 寛永3年(1626)に再興され明治3年郷社となった式内社建布都神社が城跡である。城跡を南から見ると5m程の台地になっている。神社の社地は凹凸もなく大変広くなっている。社地の東南部に横穴石室墳の建布都神社古墳や、上に応安の年紀(1368〜1375)が記された板碑がある。 |
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香美城縄張り図 辻佳伸氏作図 | 香美城跡(建布都神社) | 建布都神社(曲輪跡) | 神社裏大変広い曲輪跡です |
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市場町古墳・応安の板碑 |
市場町 日開谷城(ひがいだにじょう)
![]() | 山館 |
![]() | 城ヶ丸城 |
![]() | 40m×70m |
![]() | 徳島県阿波市市場町日開谷字岩野 |
![]() | 新田義宗は義貞の長子で応安元年(1368)、越後・上野で上杉氏に敗れて出羽の羽黒山に逃れた。その後、伊予に渡り、讃岐を経てここに入り、一宮・三ツ木・木屋平・菅生など、剣山周辺の山岳武士団や四国の南朝方の諸将と連絡しながら、この城の東南4kの秋月城に本拠がある北朝の細川氏と戦ったが、ついにここで亡くなった。本丸の新田神社は天照大神と新田義宗・脇屋義春の三柱を祀る。 |
![]() | 南北朝期 |
![]() | 新田義宗 |
![]() | 県道246号線から城王神社参道(林道)への標識があり。車での対向も出来ない道が延々と続き、途中崖崩れの箇所もあって大変危険な思いで登りました。大変高い山で車の駐車出来る所で標高520m、そこから尾根伝いに630mの頂上本丸へ徒歩で。日本城郭体系では隼人丸、本丸、物見の城や新田池、空堀等が遺構として残っているそうだが、空堀のみ消滅していて、他は比較的に遺構は残っている様です。 |
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城王山遠景(中央高い山) | 県道246号線から城王神社 への参道(林道)分岐 | 駐車場にある神社鳥居 | 駐車場、ここで標高520m |
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尾根を延々と | 急勾配の坂 | 途中の登城王大神 | 遂に到着、ここが隼人丸 |
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城王神社 | 城王神社、幕は丸に一つ引 | 新田氏の紋、丸に一つ引 | 主郭を北から |
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新田池 | 物見の城 | ここが城王山最高所 | 役行者 |
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縄張り図(日本城郭体系) |
市場町 仁賀木城(にがきじょう)
![]() | 徳島県阿波市市場町日開谷仁賀木 |
![]() | 南北朝時代に南朝方の新田氏が日開谷城に拠り、仁賀木城は里城の一つ。 |
![]() | 南北朝期 |
![]() | 葛西氏 |
![]() | 仁賀木谷川と西仁賀木谷川との合流地点に現在八幡神社が鎮座しており、ここが城址推定地。神社の社と随臣門の前の広い土地があり2段の曲輪になっている。 |
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中央の林が城跡推定地 | 八幡社 | 随臣門 |
市場町 犬墓城(いぬのはかじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 松永城 |
![]() | 徳島県阿波市市場町犬墓字大北 |
![]() | 200m×300m |
![]() | 天文9年(1540)から京都で三好長慶に仕えた。永禄7年(1564)長慶の没後は長慶の養子義継を三好三人衆らと支えたが、やがて畿内の主導権争いで三好三人衆と対立。永禄11年(1568)織田信長の家臣となったが、天正5年信長に対し謀反を起こし信貴山城(信貴山城の戦い)で自害した。 |
![]() | 南北朝期 |
![]() | 松永弾正久秀 |
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犬墓(松永)城跡 | 犬墓(松永)城跡南を見る | 犬墓(松永)城跡西方を見る |
市場町 川人城(かわひとじょう)
![]() | 徳島県阿波市市場町上喜来岡・蛭子 |
![]() | 不明 |
![]() | 『阿波郡誌』には上喜来の川人林という所に川人備前守が居館したが、天正10年(1582)、長宗我部のために焼かれたと伝えられている。 |
![]() | 川人備前守・坂東伊賀守 |
![]() | 城跡は上喜来台地標高80mの坂東伊賀守神社付近と推定されている。神社の前に城跡碑と川人備前守の墓がある。南側は比高差10m程の断崖になっている。 |
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川人城跡、右隅に石碑あり | 川人備前守の墓 | 川人氏由来の石碑 | 左の建物が坂東伊賀守神社 城跡の東西は崖になっている |
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坂東伊賀守神社 |
阿波町 久千田城(くちたじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 朽田城 |
![]() | 200m×80m |
![]() | 徳島県阿波市阿波町大坪 |
![]() | 城主小野寺八郎は元奥州宮城の人で南北朝期に南朝方として海部郡に来て戦功をあげ後村上天皇から朽田五ヶ庄を賜り、ここに朽田城を築いた。のち数代を経て天正10年(1582)小野寺備中守は長宗我部の侵攻により落城、美馬郡の一宇に退いた。天正13年秀吉の四国征伐の時、土佐に帰る元親の甥長宗我部親吉を待ち受けた備中守の子源六は栂橋の天険で土佐勢を全滅させてその仇をとった。 |
![]() | 貞治元年(1363) |
![]() | 小野寺八郎 |
![]() | 阿波町森沢の稲荷神社の北約100mの畑の中に小さな塚がある。約5m四方で高さ約5m、その上に城主を祀る祠がある。祠には登れるように簡単な木製の手摺もあるが木々がびっしり生い茂り登るのは不可能だが下には阿波町教委が建てた石柱あり。 |
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久千田城跡 | 久千田城説明板 | 久千田城石柱 | 塚の頂上に 城主を祀る祠と石柱 |
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西より見た城塚 | 塚の南から |
阿波町 伊澤城(いさわじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市阿波町岡地 |
![]() | 早渕城 |
![]() | 200m×150m |
![]() | 鎌倉期から伊澤氏が居城。戦国期には伊澤越前守頼俊が居城していた。天正5年仁宇谷に籠もった細川真之を攻めるため荒田野(新野)に出陣した三好長治を伊沢越前守頼俊は一宮成祐と共に攻め敗走させる。徳島今切城に籠もった長治を攻め長原(松茂町)で自殺に追い込んだ。頼俊は長治を滅ぼした後、板西(板野町)に城を築くために、山下の町屋に宿泊しているところを矢野駿河守、矢野備後守、三好越後守らに急襲され討ち死。 |
![]() | 治承3年(1179) |
![]() | 伊沢四郎太夫家景 |
![]() | 城跡は伊澤神社すぐ西の蛭田池の西に少し小高い丘の上である。現在は市営団地や畑になっており、城跡碑は蛭田池の南、堤防上に建っている。この付近の地名は「字城の内」といい城跡の西側にも鎌倉堀と呼ばれた堀があったらしい。 |
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伊澤城跡、写真右手 | 伊澤城跡説明板 | 曲輪跡 左の市営住宅も含めて | 蛭田池 |
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鎌倉泉跡 | 伊澤神社 | 上桜城篠原長房父子の首塚 |
阿波町 西林城(にしばやしじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 赤坂城・日吉城・一夜城 |
![]() | 80m×100m |
![]() | 徳島県阿波市阿波町赤坂 |
![]() | 80m×100m |
![]() | 城主は三橋丹後守、天正7年(1579)矢野駿河守、森飛騨守等三好方の主力が戦死した脇城外の戦いの首謀者の一人とされる。 |
![]() | 文明3年(1471) |
![]() | 三橋上総守範清 |
![]() | 城跡は王子神社北方、標高60mの尾根先端にあったらしい。尾根北方は徳島自動車道で分断されており、山林雑木の繁茂が激しいため登るのは断念。 |
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王子神社 | 城跡は神社の北方赤坂の丘陵 |
吉野町 西条西城(さいじょうにしじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町西条字蛇池 |
![]() | 100m×50m |
![]() | 西条壱岐守は近江源氏・佐々木氏の一流で、佐々木長綱の代より西条の地を領して、西条を称した。天正10年(1582)中富川の戦いで戦死、城も落城した。 |
![]() | 戦国期 |
![]() | 西条壱岐守 |
![]() | 西条東城から南西約1kに西条西城がある。周りは全て田畑であり、城跡部分だけ周りより1m強高地になっている。城跡の西に旧吉野町が建てた石碑がある。近所の人に聞くところによると城跡の前(北側)が今は埋め立てられた「蛇池」だったそう。 |
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西条西城石碑 | 西条西城跡、周りの土地より 1m強高くなっている | 蛇池跡 |
吉野町 広長城(ひろながじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町柿原字植松 |
![]() | 100m×50m |
![]() | 『平家物語』によると、師光はもとは阿波国の在庁官人であり、板野・阿波両郡内で大きな勢力を持つようになった後、都に上がり少納言入道信西に仕え、やがて鳥羽上皇の側近であった藤原家成の養子となり藤原性を名乗った。師光は出家して西光を名乗った。その後、後白河法皇に仕え近臣第一と言われるまでになったが、治承元年(1177)に鹿ヶ谷の陰謀事件の首謀者として平清盛に殺された。 |
![]() | 治承年間(1177〜81) |
![]() | 藤原西光(近藤師光) |
![]() | 徳島県立阿波高校の正門入ってすぐ左に広永城の石碑があるが、実際は北へ約300mの字植松の若宮神社付近とされている。また阿波高校の敷地付近が西光屋敷だったとされ、高校のグラウンド北に「西光屋敷」の石碑がある。 |
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広長城跡石碑 阿波高校校門入ってすぐ | 西光屋敷跡石碑 阿波高校グラウンド内 | 若宮神社実際はこちらが城跡といわれています | 広長城跡右の社が若宮神社 |
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吉野町 柿原城(かきのはらじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町柿原 |
![]() | 100m×50m |
![]() | 柿原源五は元亀3年(1572)、三好長治の猛攻撃を受けた上桜城主篠原長房(紫雲)に従い、一族の藤吾・新吾らと共に討ち死にした。その後城主となった子の義長も長宗我部との天正10年の中富川の合戦で戦死し、柿原城も落城した。 |
![]() | 戦国期 |
![]() | 柿原源五 |
![]() | 城跡とされるのは吉野川に架かる阿波中央橋北詰の東、堤防下に旧吉野町が建てた石柱(ただし倒れています)がある。このすぐ上の堤防上に「源太渡し」の石柱あり。 |
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柿原城跡の石柱 | 堤防上から見る |
吉野町 源太城(げんだじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町柿原字二条 |
![]() | 100m×50m |
![]() | 『城跡記』には柿原邑(村)承暦・永保(1077〜83)の頃、主将佐渡前司重宗の嫡、佐渡源太重実、源頼光の孫とあり、『異本阿波誌』では「廃城源太と云処にあり、東北に堀あり南は吉野川也、秋月長門守出城と伝」とあり吉野川河畔の城であったことが分る。ここ柿原と鴨島町知恵島を結んだ源太渡しは、源太城に因んだものとされる。 |
![]() | 承暦・永保(1077〜84) |
![]() | 佐渡源太重実 |
![]() | 城跡地不明 |
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源太渡し跡 |
吉野町 篠原城(しのはらじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町柿原字シノ原 |
![]() | 『阿波郡誌』では城主は篠原某として特定できていないが、上桜城主篠原駟雲(紫雲)の祖ではないかと記している。 |
![]() | 不明 |
![]() | 篠原某 |
![]() | 城跡の石碑は案内神社の北約100mの処に建っている。神社の南に堀の残欠があり、神社内には県の指定天然記念物大クスがあります。 |
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篠原城石碑 | 案内神社 | 神社前の堀跡 | 神社南の池(堀跡) |
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案内神社大クス 徳島県指定天然記念物 | 大クス |
吉野町 高畠城(たかばたけじょう)
![]() | 平城 |
![]() | 徳島県阿波市吉野町柿原 |
![]() | 『阿波郡誌』に源義長此処に籠も拠るとあるだけで詳しくは不明。 |
![]() | 源義長 |
![]() | 阿波中央橋の北詰を西に約200mの処に吉野町が建てた石碑がある。しかし城跡位置は明確な根拠に基づいて決められたものではないそうです。各種文献でも、源太城、柿原城と混同した記述か、もしくはこれらが同一の城跡の別称ではないかとも考えられるそうです。 |
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高畠城跡石碑 | 高畠城跡 | 高畠城跡 奥左は阿波中央橋 |
吉野町 五条城(ごじょうじょう)
![]() | 徳島県阿波市吉野町五条 |
![]() | 高志下野守屋敷(たかししものつけかみやしき) |
![]() | 高志下野守清之 |
![]() | 県道14号線南約130m、向ヶ島に五条神社がありその南一帯が城跡。 |
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五条神社 | 五条神社 (神社から南が城跡) | 古い祠 |
市場町 奈良坂城(ならさかじょう)
![]() | 徳島県阿波市市場町市場字町筋 |
![]() | 『阿波誌』に奈良太郎兵衛、天正10年中富川の役で討死とある。 |
![]() | 奈良太郎兵衛 |
![]() | 金清谷川の旧流路で削られた三角形状の独立した丘陵、かっては丸山と呼ばれていたそうだが今は畑になっている。城跡の東に旧海軍航空隊基地、市場飛行場の石碑があり、ここから1500mの滑走路が東に延びていたそうである。 |
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前面高台が城跡地(西から東) | 同じく(東から西) | 旧海軍飛行場跡 この碑から東へ1500mだそう |
市場町 伊月城(いつきじょう)
![]() | 徳島県阿波市市場町伊月 |
![]() | 『阿波誌』に「伊月某が世々伊月に居る」との記載があるのみで、詳しくは不明。 |
![]() | 吉野川堤防下の畑の中に伊月城跡の石碑あり。この城跡碑の南北200m、東西100mが城域らしいが南に100mといえば完全に堤防や河川敷に入るが、大正期に行われた吉野川改修工事のためだそうである。東50mには事代主神社があり、そこに五輪塔水輪2基があるとのことだが見当たらず。 |
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伊月城跡 | 事代主神社 |
市場町 筑紫城(ちくしじょう)
![]() | 大影城 |
![]() | 徳島県阿波市市場町大影 |
![]() | 詳細は不明|
![]() | ほぼ香川県境にある。 |
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この近辺と思われる |
阿波町 西野川城(にしのがわじょう)
![]() | 徳島県阿波市阿波町伊勢 |
![]() | 詳細は不明 |
![]() | 伊勢神社の西側が城跡地。神社の西約50m程の処に「リウド社」という小祠があり、ここに塚があり五輪塔残欠が多数埋もれている。 |
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伊勢神社 城跡は神社より西側 | 神社西50m程の処にある 畑に埋もれた五輪塔群 | 西から伊勢神社を見る |
阿波町 実宗城(じっそうじょう)
![]() | 徳島県阿波市阿波町谷島 |
![]() | 谷島城 |
![]() | 詳細は不明 |
![]() | 新田義宗 |
![]() | 東西南が焼く10mの断崖に囲まれた土地で、北に撫養街道、すぐ南は吉野川市山川町に渡る明王院の渡しがあり、街道と渡河地点が交錯する重要な場所での築城となる。 |
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城跡地白の土塀の向こう 右奥は天理教 | 城跡を南東方向から | 城跡地の遠景 | 古寺 |
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谷島(明王院)渡し |
阿波町 川久保城(かわくぼじょう)
![]() | 徳島県阿波市阿波町川久保・三本柳 |
![]() | 詳細は不明 |
![]() | 文明3年(1471) |
![]() | 三橋上総守海範清 |
![]() | かって「しょうびけ」と呼ばれた池の南が城跡だったそうだが池はすでに無く、はっきりした城跡地は不明で、「城の元」という地名が残るのみ。 |
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城跡地付近 |
土成町 自然寺城(じねんじじょう)
![]() | 徳島県阿波市土成町水田 |
![]() | 詳細不明 |
![]() | 『阿波郡誌』に自然寺ではなく慈念寺という記述があるそうである。日吉山に城王神社があるが、土御門上皇の陵墓ともいわれている。詳細は不明。 |
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城王神社 | 城王神社 | 自然寺城郭跡 |
参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」
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