▲TOPへ戻る

ベイシー写真館

今治城

日本100名城登城済城郭(※印未登城)

大洲城の歴史・沿革

 この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。
その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。<wiki wand より>

大洲城
大洲城
アクセスカウンター
大洲城スタンプ

別名比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城
所在地 愛媛県大洲市大洲903
城地種類梯郭式平山城
築城年代元徳3年(1331年)
築城者宇都宮豊房
主な改修者藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞奏
主要城主宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏
文化財史跡区分国重要文化財(台所櫓・南隅櫓・ 高欄櫓・苧綿櫓)、愛媛県史跡

歴代城主一覧

脇坂家、外様五万三千五百石、淡路洲本より入封
初代脇坂 安治1609〜1615
二代脇坂 安元1615〜1617信濃飯田へ転封
加藤家、外様大名六万石、伯耆(鳥取)米子より入封
初代加藤 貞泰(さだやす)1617〜1623
二代 〃 泰興(やすおき)1617〜1623
三代 〃 泰恒(やすつね)1674〜1715
四代 〃 泰統(やすむね)1715〜1727
五代 〃 泰温(やすあつ)1727〜1745
六代 〃 奏みち(やすみち)1745〜1762
七代 〃 奏武(やすたけ)1762〜1768
八代 〃 奏行(やすゆき)1768〜1769
九代 〃 奏候(やすとき)1769〜1787
十代 〃 奏済(やすずみ)1787〜1826
十一代 〃 奏幹(やすもと)1826〜1853
十二代 〃 奏祉(やすとみ)1853〜1864
十三代 〃 奏秋(やすあき)1864〜1871
グーグルマップ
大洲城案内図
二ノ丸より
二ノ丸御殿跡
二ノ丸御殿跡
二ノ丸御殿跡案内
大洲城、本丸より。左から高欄櫓、天守、台所櫓
櫓下御門(大手門)跡説明
櫓下御門(大手門)跡
下台所説明
下台所
登城道
登城道
登城道
登城道
登城道
登城道
玉櫓跡説明
玉櫓跡
鉄砲櫓跡説明
鉄砲櫓跡
本丸廻り櫓跡説明
暗り門跡
暗り門跡
暗り門跡
暗り門跡説明
本丸北の郭
御門番長屋
御門番長屋説明
三ノ丸南隅櫓
苧綿櫓
本丸から望む肱川、大洲市街
OZU CASTLE
天守と台所櫓
高欄櫓
石落とし
北側の石垣

天守、台所櫓、高欄櫓内、及び展示品

当時の大洲城模型
大洲城天守再建木軸模型
築造当時の予想模型
再建天守1層目
再建天守1層目
再建天守1層目
再建天守2層目
再建天守3層目
3層目千鳥破風部分
再建天守4層目
天守より高欄櫓
天守より台所櫓
天守より北方面、肱川を
天守より西方面を望む
天守より東方面を望む
吹き抜け部分説明
高欄櫓石落とし
高欄櫓最上層梁組
甲冑、刀剣類
築城時の想像模型
火縄銃
火灯窓
大洲城の歴史
城の縄張り・天守の特徴
大洲監獄所跡
大洲城の内堀
大洲城南外堀
柱材
  

Copyright © 2015 copyrights.basie.mobi All Rights Reserved.