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ベイシー写真館

国指定史跡、とくしま市民遺産

 下助任町の徳島藩主蜂須賀家墓所(興源寺)には、家祖正勝と13代藩主斉裕までの歴代藩主の墓があります。藩祖家政が徳島城内に設けた菩提寺(福聚寺)を2代藩主忠英が現在の場所に移し、興源寺と改めました。  蜂須賀家墓所は、興源寺のほかに万年山墓所(佐古山町)があり、10代藩主重喜が万年山墓所を開いて以降、興源寺は遺髪の拝み墓、万年山は埋葬墓という両墓制による祭祀(さいし)が行われました。

興源寺墓所

蜂須賀家菩提寺,臨済宗妙心寺派「興源寺」


墓所入口標柱


墓所入口説明板


家祖、蜂須賀政勝公と正室松の墓、
この墓地のみ一般の墓地と同じ処。


藩祖、蜂須賀家政公


初代藩主、蜂須賀至鎮公


二代藩主、蜂須賀忠英公、高さ4.2m、
無縫塔では日本最大級。


三代藩主、蜂須賀光隆公


四代藩主、蜂須賀綱通公


五代藩主、蜂須賀綱矩公


六代藩主、蜂須賀宗員公


七代藩主、蜂須賀宗英公


八代藩主、蜂須賀宗鎮公


九代藩主、蜂須賀至央公


十代藩主、蜂須賀重喜公


十一代藩主、蜂須賀治昭公


十二代藩主、蜂須賀斉昌公


十三代藩主、蜂須賀斉裕公


十四代最後の藩主
蜂須賀茂韶公は佐古万年山に埋葬


墓地内の庭園


墓地内の庭園


五代綱矩公、嗣子吉武


八代宗鎮公、嗣子重矩


十二代斉昌、再室 孝


十二代斉裕、長女 賀代


その他、重臣の墓もありました。

徳島城博物館

万年山墓所

万年山墓所案内パンフレットより


徳島南佐古の万年山登り口、少々不気味!


万年山の説明板


家祖正勝公の墓所より250m程下、
阿淡二州墓域の碑、明和3年(1766)創設


上墓域の碑を後ろから見る、実に巨大、高さ4m近くありそう。眉山の緑泥石片岩をそのまま切り出したようです


阿淡二州墓域の碑の記述内容の説明板。


家祖、蜂須賀正勝公の万年山墓所。
ほぼ眉山山頂の近くになります。


御墓山、境界石


八代藩主、蜂須賀宗鎮公の墓


行き先案内、各所にあるので迷わずに行けます。


十代藩主、蜂須賀重喜公の墓。
平唐門のりっぱな造りです。


十一代藩主、蜂須賀治昭公の墓。門は墓所が国指定になったのを機に新しく作られました。


十二代藩主、蜂須賀斉昌公の墓


十三代藩主、蜂須賀斉裕公の墓


十四代最後の藩主、蜂須賀茂韶公と夫人の墓


茂韶公墓の裏にある万年山大明神


左、蜂須賀家歴代の墓。右、正氏氏


八代宗鎮、養嗣子重隆墓や孫・曾孫の墓


十代重喜公、側室や子供の墓


十代重喜公の子、左十五女・富、右十一女・充の墓


十代重喜公の子、左五男・義功、右十五男・喜道の墓


その他親族多数の墓石


この万年山墓所に埋葬されている孫や曾孫ほとんどが
0歳、1歳で亡くなっています。


昭和21年の昭和南海地震で倒壊した多数の墓石、県は国の史跡に指定されたのを期に、修復・整備に向けて動いている。


阿淡二州墓域の碑の碑文要旨

 この墓域は第十世蜂須賀重喜が造ったもので、東西南北の四囲には盛り土をし、木炭を埋めた。今までの仏教の礼法によらず、儒教の礼式によって墓を建てた。
もともと私たちの身体は父母が残してくれたものである。これを軽んじてはならない。その意味でこの墓域の碑を建て、後の世の子供や藩民に私の志を知らしめたい。
  明和三年 冬十一月


忠義と孝行は人間の基本で、葬儀を疎かにせず、先祖を追慕し、祭祀を丁寧に行うことは最も大切である。藩主は生まれて富貴に育ち、夏は涼しく、冬は暖かに、美衣に包まれて一生を過ごした。しかし死没すれば土葬にして、地下水が骨身を浸し、土塊が皮膚を浸しても、誰一人として哀しまない。それはどうしたことであろうか。今ここに新しく萬年山に墓域を建造し、諸民たちに死後の供養を尽くさしめようとする。諸民は長らく国恩を受けて生活してきたが、過ぎし日を顧みると汗顔の至りである。私たちはいつまでも重喜公の厚徳を守らなければならない。謹んで碑面の陰に記して永く世に伝えたい。

  国相  臣 林 貞興
  従政  臣 寺澤利知
  司計  臣 西尾由則
  執法  臣 青山嘉信

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