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阿波国守護の小笠原長房の四男小笠原長宗が、暦王3年(1338)にこの地に城郭を築いた。南北朝時代には小笠原長宗は南朝に属していたが、細川頼春は南朝の切り崩しにかかり暦王元年(1340)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけた。その後小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となったが、細川頼之は手始めに夷山城、野田山城を攻め落とし、その勢いで一宮城麓周辺を焼き討ちした。しかし貞治元年(1362)ついに細川頼之軍に破れ一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居した。 阿波が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで一宮成祐の時代には三好家臣団の中でも重要な地位を占めたが、三好長治が国主になると、家臣団の重鎮篠原長房が木津城主篠原自遁の讒言に遭い、討ち取られて、家臣団も分裂状態となった。天正5年(1577)、三好長治は細川真之を討つため兵を挙げたが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが挙兵、三好長治軍を脅かした。三好軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好軍を2千兵で包囲、3日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年3月18日朝、松茂月宮で自害させた。これを聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。天正5年、元親は阿波に侵攻、大西城を攻め落とした。これに乗じた一宮成祐は9月に勝瑞城を攻めるため出撃したが、名東に差し掛かった時、矢野駿河守の援軍の淡路勢が成祐の軍を横から攻撃したが壇の原(国府町)で激戦ととなったが成祐は淡路勢を散々に破った。そこで木津城主篠原自遁は、紀伊・淡路の援軍とともに一宮城に攻め寄せたが、成祐は戦いの不利を察し、焼山寺に引き篭もった。翌天正6年、十河存保は勝瑞城の城主となったが、翌天正7年、十河存保は脇城下で岩倉城主三好式部少輔の謀略で大打撃を受け、成祐は焼山寺から一宮城に帰った。天正8年、成祐は十河存保を殺そうとしたが、これを察知した存保は讃岐十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城主となった。天正10年、三好康長は織田信長の四国征討軍の先鋒として阿波に入り、十河存保と共に一宮城、夷山城を収めた。ところが6月2日本能寺の変が起こり康長は急遽京に上ったので、元親はこの機会に乗じ、同8月、2万3千の兵で海部方面から阿波に侵入し、中富川の戦いで存保を破り、阿波を平定した。一宮成祐は中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、元親のもとに三好康長と一宮成祐が通じていたことが耳にしたので、同年11月、急ぎ談合したいと夷山城に呼び寄せ、元親の家臣畑弥助に殺させた。長宗我部元親は後の憂いを無くすため新開道善、細川真之など阿波国に招き入れた武将をことごとく殺害していった。 ついで、元親は一宮城を谷忠澄らに守らせたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の時、豊臣秀長の4万の兵で攻撃、7月に元親の降伏によって開城した。同年9月、蜂須賀家政は秀吉から阿波を与えられ一宮城に入ったがその後徳島城に移り、その後を益田長行が城代となり、阿波九城の一つとして重要な支城となったが、寛永15年(1638)一国一城令によって廃城となった。 wikipediaより |