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ベイシー写真館

藍住町 勝瑞城(しょうずいじょう)

平城
史跡国指定
別名阿波屋形・下屋形
所在地徳島県板野郡藍住町勝瑞
南北80m×東西60m
この城は南北朝期から戦国期にかけて阿波の政治・経済・文化の中心地として、ある時は"天下の勝瑞"として、日本の中世史上見過ごすことのできない城跡である。阿波土成秋月城に本拠を構えていた細川頼之は阿波・讃岐を3分割し東讃岐を自分の領土とし西讃岐を弟頼有に任せ、阿波を弟詮春に与えて、その館を秋月から移して地名を井隈郷(奈良の平城京跡から阿波国板野郡井隈郷と書かれた木簡が発見されている)から勝瑞とした。以後2百二十年間、土佐の長宗我部元親の四国侵攻まで、細川・三好両氏の所領として栄枯盛衰の歴史をつづることになる。
貞治2年(1363)、(鎌倉時代初期)
細川詮春、(小笠原長清)
細川成之・持隆、三好義賢・長治、十河存保
現在城跡には三好氏の菩提寺である「見性寺」があり、三好氏四代(之長・元長・義賢・長治)の墓がある。濠は広い部分で16mあり、土塁も一部残っている処もあり平城としては保存状態も比較的よく残されている。本丸跡には勝瑞の末路を弔った「勝瑞義家(ぎちょう)碑」や矢の材料である「矢竹」も残されている。この城跡から南西に200m程の処には三好実休の居館であった広大な勝瑞館もある。両方とも国の史跡に指定されている。
県道沿いの石碑見性寺三好氏歴代の墓左より
之長・元長・義賢・長路
北側の濠
勝瑞城案内板土塁と説明板矢竹と説明板勝瑞義家碑

藍住町 勝瑞館(しょうずいかん)

城の形態平城
史跡国指定
別名阿波屋形・下屋形
所在地徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地
規模約42万u(国史跡指定面積)
城の歴史勝瑞は室町時代後半に細川氏が守護所を設けた土地でそれまでは井隈荘と呼ばれていましたが勝瑞という地名は細川氏によって名付けられたと言われています。住吉大社式年の造営に関し、金物用途拠出の割当は住吉大社領中最高額であり、井隈荘の経済力の高さがうかがわれます。阿波勝瑞では天文22年(1553)に、長慶の弟、義賢が主の守護細川持隆を自害に追い込み、阿波の実権を握るようになります。長慶の全盛期には、義賢は讃岐・阿波の支配を任されていましたが、永禄3年(1560)に長慶の命によって河内高屋城に移り、勝瑞は重臣の篠原長房が守りました。永禄5年に義賢が敗死すると、義賢の長子である長治が勝瑞の主となります。長治は、家臣の讒言により篠原長房を攻め滅ぼしたことなどがきっかけとなり、やがて守護細川真之を擁立した反三好勢力によって自害に追い込まれます。天正10年(1582)土佐の長宗我部元親の侵攻により中富川の合戦により破れ2百30年続いた勝瑞の繁栄も終わりをつげることとなった。
築城年代戦国期
築城主三好義賢(実休)
主な城主三好義賢(実休)・之長・元長・長路
城の現状元は鉄工所跡地であったが1997年からの発掘調査により出土遺物の質・量から三好実休の居館跡と推定された。本丸の勝瑞城跡と居館跡は「勝瑞城館跡」として国の遺跡として2001年1月に指定された。遺跡からは建物の礎石跡や枯山水庭園、大規模な濠跡や2体の状態の良い骨の土杭墓、その他食器類やかわらけ等貴重な遺物が沢山出土しています。
勝瑞城館会所復元
三好実休(義賢)肖像画
(妙国寺蔵)
三好長輝(之長)肖像画
(見性寺蔵)
三好長基(元長)肖像画
(見性寺蔵)
勝瑞館跡石柱勝瑞館案内板
礎石建物跡・土杭墓濠跡・礎石跡の説明板濠跡濠跡説明板濠跡
建物礎石跡会所枯山水庭園説明板枯山水庭園発掘中です
三好長春終焉の地
松茂招魂社にあり
松茂招魂社発掘中です三好実休戦没地の碑
(大坂久米田)と実休の墓
wikipediaより

香川県高松市十川東町 十河城(そごうじょう)

平城
史跡高松市指定
所在地香川県高松市十川東町932
規模主郭60m四方(現称念寺)
天文年間(1532〜55)に阿波の三好長慶の弟、一存を養子に迎えた。一存(かずまさ)は「鬼十河」と呼ばれた猛将で、畿内各地で戦い、讃岐でも勢力を拡大、後を継いだ存保(まさやす)も三好家からの養子であり、讃岐の旗頭として活躍した。天正10年(1582)城は土佐の長宗我部元親の軍勢三万六千の兵で囲まれたが一度は土佐に引き返えさせたが天正10年に開城した。天正13年、豊臣秀吉の四国出兵により、山田郡2万石は再び存保に与えられたが翌年九州の戸次川の戦いで敗死、廃城となった。
南北朝時代
十河氏
十河一存・十河存保
称念寺十河城跡石碑市史跡十河城跡南北朝期の五輪塔群
句碑城跡西の溜池

藍住町 住吉城(すみよしじょう)

城の形態平城
史跡町指定
所在地徳島県板野郡藍住町
規模東西83.4m×南北100m
歴史城主山田陸太夫は近江国山田の住人で佐々木氏の家臣であったが、佐々木氏が織田信長に敗れて後、三好氏を頼り天正8年住吉に拠ったが、その後長宗我部氏の侵攻により勝瑞城と運命を共にする。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐で功のあった赤松二郎則房(播磨置塩領主)が1万石の地を支配した。今の藍住町全域を含んでいた、蜂須賀領とは別に置塩領といったが、関が原の合戦で西軍に味方して滅んだためこの城の歴史も終わった。
築城年代戦国期
築城主山田陸太夫
主な城主山田陸太夫、赤松二郎則房
城の現状八坂神社集会所前に藍住町が設置した、案内板あり。そこから西へ約100mの田んぼの中に昔から「城神さん」と呼ばれている小祠がある。それ以外は遺構は無いが、東700mの福成寺に赤松二郎則房の墓といわれている五輪塔がある。。
集会所前の掲示板住吉城掲示板掲示板南西200mの場所、
畑の中にある「城神さん」
「城神さん」と
呼ばれている祠
赤松二郎則房の墓といわれている五輪塔(福成寺)

藍住町 矢上城(やがみじょう)

城の形態平城
別名勝興寺城
所在地徳島県板野郡藍住町矢上西
城の歴史勝瑞城の支城。築城年代は明らかではないが細川・三好氏の時代は勝瑞城の西大手口として戦略上重要な拠点であった。天正10年の長宗我部元親の侵攻の際は勝瑞城主十河存保自らこの城に入って指揮にあたった。時の矢上城主矢野伯耆守の嫡子矢野備前守は、先陣をきって中富川に討ち入り敗死した。勝瑞城の支城。
築城年代戦国期
築城主矢野伯耆守虎村
城の現状正法寺川にかかる前川橋東詰、ふらわぁいん八丁堀という花屋さんの裏の田んぼの中に矢上城主矢野氏を祀る小祠がある。遺構は小祠と矢上に矢野備後守の墓が残るのみ。
矢上の畑に残る小祠城主を祀る祠矢野備後守の墓正法寺
中富川の遺流
正法寺川と前川の分岐

藍住町 奥野城(おくのじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡藍住町奥野字乾
城の歴史勝瑞城の支城。勝瑞城主細川持隆を討った三好義賢(実休)に、旧主の仇をとろうと国府芝原城久米義広らが挑んだ黒田鑓場の合戦の際、三好方の奥野城主奥野新右衛門は、久米方の勇将野田内蔵助を討ち取り手柄をたてた。
その後天正10年の長宗我部勢の侵攻での中富川の戦いで落城。
築城年代戦国期
築城主奥野新右衛門
城の現状定かではないが、字乾との民家の中に山田神社があり子孫が先祖を祀った祠がある。そのあたりが奥野城の跡地らしい。遺構は何も無し
山田神社奥野氏の子孫が
先祖を祀った祠
奥野新右衛門ゆかりの観音院

藍住町 徳命城(とくめいじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡藍住町徳命
城の歴史『阿波誌』によると「徳命塁 徳命村にあり、佐竹出雲守此に拠る。今寺と為す、即ち千光寺」と記されているそう。勝瑞城の支城。
築城年代戦国期
築城主佐竹出雲守
城の現状臥竜梅の観梅で有名な阿波西国三十三観音霊場第5番札所「千光寺」がその場所である。遺稿は何もなし。奥野の諏訪神社の前に佐竹出雲守の祠があります。
千光寺門千光寺と梅
臥竜梅は枯れたそうです
佐竹出雲守神社佐竹出雲守(銘があります)

北島町 中村城(なかむらじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡北島町中村城屋敷
城の歴史城主北島権頭は天正10年(1582)、長宗我部元親が侵攻した時に敗死し落城した。
築城年代戦国期
築城主北島権頭
城の現状北島町中村の能満寺の北に城屋敷という処があり、ここが『阿波志』の中村塁の跡。今は水田の中に首塚とよばれる墓地があり、地元の人は北島権頭の墓ではないかという言い伝えがあるそう。
航空写真首塚北島権頭の墓
どれだか不明

板野町 板西城(ばんざいじょう)

城の形態平城
史跡町指定
所在地徳島県板野郡板野町古城
城の歴史平氏政権の末期治承元年(1177)に殺された藤原師光の第6子近藤六親家の築城。親家には子がなく、のちに勝瑞の三好義賢の姪婿小笠原宗伝が赤沢信濃守宗伝としてこの城を守った。赤沢信濃守は一族を板西城下16村内に分居させて一大勢力を誇った。天正10年の長宗我部の侵攻に赤沢氏の一族郎党二千の軍勢で迎え撃ったが奮戦むなしく敗れさった。
築城年代鎌倉初期
築城主近藤六親家
主な城主近藤六親家・赤沢信濃守宗伝
城の現状板野町古城の南あたりが本丸跡、規模は一町四方の平城で、名残をとどめるのは地名の"古城"や古町(城下町)くらい。今は民家の隣に板西城の標柱と祠がある程度。近くの愛染院(四国霊場三番札所金泉寺奥院)に合戦に敗れた赤沢宗伝やその一族の墓所があり一族将兵を弔う大小無数の五輪塔がある。
板野町古城にある石碑、後ろの祠はお地蔵さん、
右の石柱がそうです。
板西城の案内板愛染院赤澤信濃守廟
赤澤信濃守廟所板西城戦没将兵の墓夥しい五輪塔群

板野町 犬伏城(いぬぶしじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡板野町犬伏
歴史城主犬伏左近は板西城主赤沢信濃守宗伝の一族で板西領の一部を分有した。天正10年の中富川の合戦で三好家と運命を共にした。城の場所や規模は不明。
築城年代戦国期
築城主犬伏左近
城の現状板野町には城の名残は何も無いが、県埋蔵文化財センターの上あたりが推定地である。中富川の合戦の舞台であった藍住町東中富(昔の中富川東)に犬伏左近を祀る「大富彦神社」と近くの老人憩いの家内に小さな祠と藍住町が設置している標板がある。
犬伏城跡全景犬伏左近を祀る祠現在郭跡は古墳が移築古墳石室展示
古墳石室説明石室内大富彦神社犬伏左近を祀る祠
藍住町が立てた標板犬伏城跡遠景

板野町 川端城(かわばたじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡板野町川端
城の歴史『阿波誌』には「川端村に在り、永禄元亀の間、河端越前守此処に居る」と書かれているそう、また『城跡記』には「天正10年落城、主将越前守、在を以て氏とす」とあるそう。
築城年代戦国期
築城主川端越前守
城の現状JR高徳線川端駅すぐ北の小高い丘のあたりがその城跡らしい、すぐ近くには川端城主が武神として勧請した諏訪神社がある。
JR川端駅北の諏訪神社諏訪神社

板野町 大寺城(おおてらじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡板野町大寺
城の歴史大寺松太輔について『古城諸将記』は「姓は源氏、大和守源頼親の末葉大寺治郎光治の子」とあり、天正10年(1582)の中富川の戦いで討死、それと同時に落城。
築城年代戦国期
築城主大寺松太輔
城の現状板野町大寺に居城したとあるだけで、遺構は無し、場所もはっきりしていない。四国八十八番箇所大三番金泉寺の北の山塊に城跡があったという説もある。

板野町 下庄城(しものしょうじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡板野町
築城主阿部采女正
城の歴史采女は赤澤家十二人衆の一人で、中富川の合戦で討ち死に。

板野町 上荘城(かみしょうじょう)

城の形態平城
別名矢武城
所在地徳島県板野郡板野町
築城主赤澤美濃守

板野町 大坂口番所跡(おおさかぐちばんしょ)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡板野町大坂字ハリ71-1
築城年代正保元年(1644)
城の現状御番所は、数十年前に取り壊されて現存していませんが、番所跡には代々番所役人をしていた村瀬家が居住していた建物(町指定史跡)が現存しております。興味深いのは踏絵のレプリカがあること、阿波国出身のディオゴ結城神父が、ここ大坂口番所で捕らえられて、取り調べたそうである。
大坂口番所跡案内大坂口番所跡(旧村瀬邸)大坂口番所跡説明板藩政時代の番所跡
踏絵(レプリカ)讃岐街道讃岐街道

上板町 北池城(きたいけじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町引野
城の歴史北池壱岐守は三好氏の家臣、天正10年(1582)長宗我部の軍勢を迎え撃って勝瑞城下の見性寺で討死した。
築城年代不明
築城主北池壱岐守
城の現状役場の教育委員会に問い合わせて行ったが、現地は完全に民家の真裏で通りからは全然見えません。行くにも道は無し、田のあぜ道を通って行きました。この城跡の周りはすべて北池性ばかりですね。
真念の道標、五番札所安楽寺への道標らしい真念の道標、前の道標との中間地点に城跡あり北池城跡、民家の裏で途中道は無し、田のあぜ道を通って

上板町 七条城(しちじょうじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町七条
規模不明
城の歴史城主七条兼仲は天正10年(1582)中富川の合戦にて敗死
築城年代戦国期
築城主七条孫太夫隼人介
主な城主七条兼仲
城の現状城の中央は宮川内谷川の川底になっている。上板橋北詰の堤防下に石碑あり、すぐ向かいの南岸に小さな石垣が残っている。
七条城跡対岸に少し残る石垣、井戸も在るとの事だが探してみたが在りませんでした

上板町 椎本城(しいのもとじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町椎本
規模不明
城の歴史城主板東紀伊守は板西城主赤沢信濃守宗伝の一族、板西領の一部を預かってこの地に住んだ。天正10年(1582)の中富川の戦いで闘死した。
築城年代戦国期
築城主板東紀伊守
城の現状城跡ははっきりしたことは不明だが、昌光寺すぐ西北、板東という地名のあたりと思われる。板東紀伊守の墓はすぐ南手の昌光寺にあり。
昌光寺板東紀伊守の墓

上板町 瀬部城(せべじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町瀬部
規模不明
城の歴史戦国末期に三好氏に属し、天正10年(1582)に中富川の合戦に参戦、討死した。
築城年代戦国期
築城主瀬部嘉右衛門
城の現状道沿いの畑に祠があるのみ。
瀬部城跡瀬部城跡

上板町 台山城(だいやまじょう)

城の形態平山城
所在地徳島県板野郡上板町神宮寺
規模不明
城の歴史戦国期の井沢越前守は、勝瑞の三好氏の恨みを買い焼き討ちにあったと伝えられている。
築城年代戦国期
築城主井沢越前守
城の現状上板町北部の台山(高さ約60〜70m)頂上がその場所である。頂上は細長い台地になっていて、今は祇園神社と公園になっている。
台山の麓には小さな溜池が点在しているが城を取り巻く濠の跡だそう。
登城口
他にも2処あります
途中猪や猿に出くわさないかビクビクでした頂上は細長い台地で当時は
本丸跡の郭かな
標識も何もないが
祠が一基ポツンとあるのみ
地図には祇園神社となってるが、お社らしき建物は無し、これが神社?写真は暗くて分かり難いけど竹薮の向こうは台地になってるので郭かな?台山の麓にある溜池台山の遠景

上板町 西分城(にしぶんじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町西分
規模不明
城の歴史城主榛谷越後守は細川氏の一族だったが、後に三好氏の家臣となり、天正10年(1582)に中富川の合戦に参戦、討死した。
築城年代戦国期
築城主榛谷越後守
城の現状東光小学校西の信号(ローソンあり)を北へ6〜700m、更地の中に石柱があるのみ。
西分城跡西分城跡石柱

上板町 下六条城(しもろくじょうじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町下六條
築城主三好何右衛門

上板町 佐藤塚(佐藤須賀)城(さとづかじょう)

城の形態平城
所在地徳島県板野郡上板町佐藤塚
築城主佐藤久右衛門
城の現状はっきりとした城跡は不明だが、吉野川の川底になったと思われる

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」

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