■徳島県の他の古城跡
- 徳島城
- 阿波の古戦場
- 蜂須賀家墓所
- 阿波藩御屋敷陣屋番所址
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- 阿南市の城郭
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- 美馬郡の城郭
- 三好郡の城郭
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- 名東郡の城郭
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- 香川県の城郭
- 愛媛県
- 高知県
■四国の城郭
■中国の城郭
南北朝〜安土桃山時代

■ 南北朝の攻争戦
六百年前の昔、阿波の平野武士と山岳武士が勢力を競いあって長期の抗争が繰り広げられた。元弘3年(1333)、鎌倉幕府の北条氏が滅んで、翌年年号を建武と改めて、後醍醐天皇の親政が始まった。新政権の公家本位の政治に不満を抱いた足利尊氏は、武家政治の再興をはかって天皇方に反旗を翻し、諸国の武士に蜂起を呼びかけた。最初尊氏は鎌倉で兵を挙げ、朝廷方の新田義貞を打ち破って京へ上がったが、北畠顕家の大軍に敗れて九州に遁走した。
その後勢力を盛り返した尊氏は50万の大軍で新田義貞、楠木正成を打ち破って再び入京した。尊氏に属して兵庫の和田岬、湊川の合戦で五百余船を連ねて戦功をあげたのが細川氏一族であった。尊氏が瀬戸内海の制海権を確保するため、細川和氏、頼春の兄弟が阿波に派遣され四国制覇にのりだした。建武3年、和氏は、板野郡土成に秋月城を築いたが、職を頼春に譲って、板野郡藍住に勝瑞城を築いて本拠とし、国内の武家統一に着手した。
阿波の南北朝期の勢力
北朝(足利幕府方) | 細川氏、三好氏(小笠原氏の一族)、飯尾氏。 その他、平野地の多数の豪族。 |
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南朝(吉野朝廷方) | 小笠原、大西、一宮、岩松、安宅、三木、木屋平、西山、菅生、小野寺、徳善、渡辺の各氏 この外、三好、美馬、麻植、名西、その他の山地に住んだ豪族。 |
阿波では正平5年(1350)、細川頼春と飯尾隼人佑吉連、飯尾四郎為重らが大栗山の一宮城、八万の夷山城を攻めたのが突破口となった。正平6年、一宮城が焼かれ、7月八幡夷山の東条合戦、同7月新堂原(不動)合戦、10月麻植別枝山(美郷)の別枝城の攻撃、10月岩松氏が立て篭もった中津峰合戦等激しい戦闘が繰り広げられた。この後正平17年(1362)、細川頼之は北軍の叛いた細川清氏を讃岐で滅ぼし、翌年一宮城を攻め落とした、この時から阿波の南軍勢力は急速に衰え始めた。細川氏が入国して約40年を経た天授2年(1376)頃、南朝に尽くした武将たちは既に亡くなって、その豪族たちの子や孫の代になり、体勢は細川氏のもとに帰順した。
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秋月城跡 | 勝瑞城跡 | 飯尾城跡 | 夷山城郭跡 |
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一宮城本丸跡 | 細川頼春の墓 | 岩松氏が立て篭もった 中津峰山如意輪寺 | 細川頼之 |

■ 一宮城の攻防合戦
阿波に数ある古城のなかで、何時の時代にも勢力や領地の争奪をめぐって激戦場となったのが一宮城である。その最初の戦いは約六百年前の南北朝の抗争時代であった。北朝の平野武士と、南朝の山岳武士が対立したのは延元元年(1336)、細川和氏が阿波に入り秋月城を拠点として四国制圧に乗り出したのが始まりである。阿波の山岳武士の最初のリーダーは、鎌倉時代から三好、美馬郡内で勢力を誇っていたのは小笠原一族であったが、その勢力が西部に偏っていたため、和氏が入国して間もなく小笠原長宗が東部に進出して一宮城を築いて、性を一宮に改め南軍の党領となった。長宗が築城してから2年後の延元3年(1338)、細川頼春は南軍の首領格の切り崩しにかかり、興国元年(1340)、三好市の大西城の小笠原義盛と白地城の大西氏を倒してのち、一宮城の長宗に総攻撃をかけてきた。長宗は幾度の戦いで重傷をうけ正平元年没し、その子成宗の世代となった正平5年(1350)、細川頼之と家臣飯尾隼人佑吉連(鴨島飯尾城城主)らが、最初八万の夷山、一宮六郎二郎成光が守った野田山城を落とし、一宮城の攻撃にむかって、本丸麓の里城が焼き討ちされた。
この当時四国の南軍勢力は打撃を受け、唯一残った木屋平、祖谷山の諸豪も次々に落ち、弘和元年(1381)、南朝の勢力は全滅した。その後数代を経て元亀〜天正年間に城主一宮長門守成祐は、長宗我部元親が阿波を侵略し始めた時、国内は上桜の合戦等で、国王三好長治に不満を抱いて背を向けた。天正5年(1577)、長治は今切城に陣を張って一宮城を攻めたが、三好家から離反した細川掃部頭真之らと、土佐の援軍が逆襲して今切城主篠原玄馬亮が討ち取られ、長治は月見ヶ丘で自害させられた。
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細川和氏の墓 | 広長城跡 | 飯尾城跡 | 夷山城郭跡 |

■ 八ッ石城の攻防合戦
三好市で広大な塁砦をもっていた八ッ石城は、一宮城とともに、阿波の山岳武士が拠点として活躍した典型的な山城であった。築城は興国〜正平年間(1340〜1369)、つまり南軍勢力の活発な時期である。
延元三年(1338)、新田義貞が生田の森合戦で戦死、四年後の興国三年(1342)、伊予に渡っていた脇屋義助(義貞弟)が国府で病死。義助の死によって四国の南朝勢は大きな痛手であり士気の高揚に影響を及ぼした。義助の子義治は上野国(群馬県)の竹下合戦に初陣して以降東国方面で足利尊氏軍と転戦し正平七年(1352)、武蔵国(神奈川県)の金井原で足利軍を破り鎌倉を一時占拠したが、半年後に北軍の反撃で越後に逃れた。その後新田義宗と兵を起こしたがこれも失敗、出羽国(山形県)に逃れた。その後、出羽国の羽黒山を出た義治と義宗は美濃国(岐阜県)から伊勢、大和路を経て、和泉国(大阪府)の堺浦より、淡路島の沖合を通過して、備後国(広島県)の鞆の津に入って伊予の大島に着いた。
伊予の土居・得能氏は宇和島で義治を迎えたが、時既に遅しで、四国の南軍勢力は父の病没以来、次第に北向しつつある状況で、三好郡池田の小笠原氏、白地の大西氏、祖谷山の徳善氏、落合氏、西山氏、菅生氏等も北向に傾いていた。以前より八ツ石城下の井内谷の土豪達は伊予に下向した義助を奉じて気勢をあげた。しかしこの時の義治は、南朝再興の構想を抱いていたが、兵をあげるほどの余力は無かった。
八ッ石城の古事資料や新田神社の由来の中で、義治は伊予から阿波に入って八ッ石城に籠り、後、井内谷に留まって淋しい生涯を閉じた。
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7号目付近の案内 | 駐車場からの登城口鳥居 | 八ツ石城跡案内 | 三好市指定文化財標柱 |
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碗貸石 | 〃 | 八ツ石城跡石板 | 碗貸塚 |
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主郭跡 | 土塁 | 空堀 | 横堀と竪堀 |
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![]() | 空堀 | 土塁と堀跡 | 馬岡新田神社 | 馬岡新田神社 |
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脇屋義治終焉ノ地 | 両新田神社 |

■ 黒田・鑓場の合戦
天文17年(1548)、武勇才覚に優れて、下克上の3人男といわれた松永弾正久秀(阿波市、犬墓城主)に支えられた三好長慶は天下の情勢は我がほうにありとみなして、執事でありながら管領細川氏の上にたって、長慶は室町幕府の実権を握った。そのころは天下人の織田信長より長慶のほうが偉い男だと京畿内では噂されていた。天文18年(1549)長慶は軍を起こして完全に五畿内を掌握、さらに四国全土も掌握した。その頃長慶の弟三好義賢は勝瑞城主細川持隆の執事であったが兄の長慶の威光で主君の権をふるまうようになった。
この時から細川派と三好派の対立が激しくなった。その頃持隆は、平島公方の足利義冬を将軍に擁立しようとしたが、これに反対する義賢と激しく対立した。このことにより持隆は密かに義賢を討つ機会を狙ったが、この謀議が四宮与兵衛の密告によって義賢に知られ、天文21年(1552)6月、逆討ちで持隆の暗殺を謀った。多数の三好勢に囲まれて追い詰められた持隆は、見性寺に逃れたが寺の境内は討手の兵で埋め尽くされ従臣星合弥三郎の付き添いで切腹した。
持隆の家臣達は持隆の無残なる殺害と義賢の暴挙に耐えかねた芝原城主、久米安芸守義弘は細川家の恩に報いる為、義賢を討つことにした。天文22年(1553)、英城主仁木日向守高将、蔵本城主小倉美濃守重信、佐野須賀城主佐野丹後守範房、野田山城主野田内蔵助等と謀議の上、総勢八百余の兵を芝原城に集結した。
最初三好方の一宮長門守成助(一宮城主、義賢の娘婿)の里城を夜襲したが成助は逃げられたが、成助の妻女を人質として芝原城に引き上げた。これに驚いた義賢は淡路の安宅攝津守冬康(義賢の弟)に援軍を求めて、二千の軍勢で中富川の北岸に陣取った。久米方は南岸の黒田に陣取ったが、三好の大軍は東西に分かれて黒田に侵入した。この戦いで豪傑といわれた野田内蔵助と淡路の野口肥前が一騎打ちとなり、両者勝敗が決しないうちに三好方の奥野新九郎親経(奥野城主)に内蔵助は左腕を切断せられ、重傷になりながら野口肥前と組み合って刺し違えた。久米勢は最後まで奮戦したが多勢に無勢で、力尽き果てた安芸守は槍場の丘に駆け上って自刃したが、生き残った将兵は殆んどなくほぼ全滅した。
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三好長慶像 大徳寺・聚光院蔵 | 三好義賢(実休)像 妙国寺蔵 | 芝原城跡 現八幡神社 | 芝原城跡 現蔵珠院 |
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蔵本城跡 | 佐野須賀城跡 | 佐野丹波守平明の墓 | 野田山城跡遠景 |
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英城跡、西願寺山遠景 |

■ 上桜の合戦
川島城から南へ約500mを距てた久保田の植桜山の山頂(標高200m)が天文〜元亀年間(1532〜1572)、篠原右京進長房(紫雲)が築いた上桜城で、別名川島南城ともいわれた。三好義賢が大坂久米田の陣で永禄5年(1562)戦死したあと、国主は長男長治が跡を継ぎ、二男存保は讃岐虎丸城の十河家の養子となった。主君長治は幼少だったため長房は一族の篠原備前守自遁(鳴門木津城主)や赤沢信濃守(板野板西城主)とともに国政を補佐した。元亀元年(1570)長房は自遁や篠原右衛門尉とともに五千の兵を率いて、京の三好三人衆や本願寺の門徒の支援を得て、摂津で織田信長と戦い同2年5月備前で毛利勢と戦い、同年7月再び摂津で高槻城を攻めた。戦国の動乱期の中で長房は一軍の司となって奮闘し内政にも力量を発揮した。その頃、亡君義賢の妾妻、絶世の美女といわれた小少将(大杉殿)が篠原自遁と不倫な仲となり、邪恋に血迷った小少将は自遁の讒言に陥って目の上の瘤となった長房を亡き者にするため三好長治に長房は奸臣であると告げたため長房は冷遇されるようになった。側近ながら不快な日々であった長房は、この頃から知行地の上桜に籠もるようになった。これが三好家にとって不気味で、裏切りに出ると誤解された。
元亀3年(1572)6月、長治は三好の主勢と讃岐の軍勢とで攻撃を開始した。まず始めに長房と誼みのあった板西城の赤沢信濃守宗伝を襲撃、十河存保の軍勢七千が上桜城に向かった。長房は郡内の兵士七千五百人を集めて善入寺に陣を張って、吉野川北岸に押し寄せてくる大軍を迎えた。しかしジリジリと押し寄せてくる大軍に城の兵力は大日寺から山の麓まで押し縮められ、兵糧、兵器の輸送路も断ち切られて戦闘はますます困難になった。その間隙に乗じて十河勢は前衛の陣地を打ち破って大日寺を占拠した。急峻な山城に立て篭もって敵と肉迫戦を展開したが、この時すでに勝利の望みは失われていた。
これで最後と覚悟した長房は、妻子3人を逃がし、7月16日早暁、長房と長男大和守長重は討ち死を覚悟して、本丸に火を放って大日寺の本陣に突入した。大和守が存保めがけて長刀を振りかざして乱入したが背後から襲い掛かった香西氏の家臣植松帯刀の凶刃に倒れ、長房も敵陣のなかで悲壮な最期を遂げた。両軍が激戦を交えたのは、現在の川島駅から城山の麓までの間で、双方の死傷者は千五百余であった。
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県道沿の上桜城跡標柱 | 上桜城跡案内板 | 上桜城本丸跡 | 上桜城西の丸虎口跡 |
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本丸と西の丸の間の手水鉢 | 新城本丸跡 | 篠原右京進長房の墓 | 戦没将士の墓 |
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![]() | 戦場になった大日寺跡 | 篠原自遁の木津城跡 | 赤沢信濃守の板西城跡 | 戦場になった右が善入寺島 |

■ 今切の合戦
天正4年(1576)12月の夜、細川讃岐守持隆の遺子掃部頭真之が、家臣仁木伊賀守、林喜内の他、足軽3名を伴って勝瑞城を抜け出して飯谷の福良出羽守連経の館に身を寄せた。福良家は星谷、生名、長柱、福良等に城塁を構え、勝浦郡内の有力な豪族であった。出羽守はまず、那賀郡仁宇谷(鷲敷町)の茨ヶ岡に新城を築いて真之の居城とした。父持隆が三好義賢に殺されて二十四年の歳月を経ておりその間に三好氏一族に支配されてきて、国王は義賢の子長治が継ぎ、細川の御館様とは名ばかりで、無官となった真之は聾桟敷におかれていた。三好家の重臣、篠原右京進長房が小少将の讒言によって長治の攻撃を受けて非業の死をとげたが、以後、三好氏一族の協力体制は崩壊の一途をたどった。ましてや長治は暗愚で篠原玄蕃亮や山井図書亮等と酒色にひたり、国政を顧みず乱脈をきわめた。その上真之が出奔を決意したのは波乱と不遇の連続でともすれば自身に危機がふりかかる予想があったからである。当時長宗我部元親は南の諸城を落し入れ、仁宇城主仁宇伊豆守正広と婚姻を結び西方城主東条関之兵衛実光に自身の養女を嫁がせる等、阿波の南方は土佐色に染まりつつあった。古くから細川、三好氏の属下にあった一宮城主一宮長門守成祐、伊沢城主伊沢越前守頼俊、早渕城主早渕頼母亮も長治に離反して元親と誼みを通じていた。
天正5年(1577)3月、長治は自ら兵を率いて真之を攻めるべく那賀新野に出陣した。しかし三好勢が新野で数日かけて作戦を練っている間に、北から一宮、伊沢の軍勢が三好勢に攻撃を開始した。長治は兵を引き揚げて篠原玄蕃亮が拠った今切城に入って作戦を立て直して再び仁宇山に攻め込もうとしていたが、その間に真之は輩下の諸豪、二千の軍勢で今切城を攻め落とした。城を逃れた玄蕃亮は大岡村(助任)に住んでいた家来、郡勘助の家に逃げ込んだが、厳しい探索で見つかり玄蕃亮は首討ちされた。今切の城が落ちたとき、すでに三好方は相手の兵力に対抗する戦力を失っていた。身辺の警護の数人の家来とともに、死の窮地から逃れることは最早出来ないことを悟って、長原の月見丘の老松に蹲った長治は 「みよし野の花の数にはあらねども、散るにはもれぬ山桜かな」 の辞世の句を残して、愛刀貞宗の小脇差で切腹した。天正五年(1577)三月二十八日辰の刻(午前八時)であった。
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城本丸跡とされる篠原神社境内 | 篠原神社境内 | 篠原神社西の真観寺 | 三好長春自刃の地、松茂長原 |
■ 那佐湾の合戦

長宗我部元親の弟、島弥九郎(親益)が侵入して殺された那佐湾、中央が二子島
元亀2年の春、土佐の長宗我部元親の末弟、島弥九郎親益が長期の病気の療養により、有馬温泉の温浴治療をするため三十余名の家臣を連れて、土佐の浦戸港を出帆した。船が港を出る時は波は穏やかであったが、土佐湾を離れ海部の沖を通過しようとした時、春には珍しい強風雨にみまわれた。日頃、外海の航海に乗り慣れた土佐の武士であったが、山の様な大波が船腹を叩きつけ、豪雨と強風で、帆は吹き飛ばされた船が今にも沈没しそうになったのでやむなく那佐湾の漁師の港に錨をおろした。平常見かけない武士が乗った船に漁民は驚いた。武士たちは剣かたばみの定紋入りの装いで、交わす言葉が土佐訛りで、これを知った漁民達は「土佐の悪党が城下の様子を探りに来た、隠密であろう、早く鞆のお殿様にお知らせしろ」と、早速海部城にこれを告げた。城主海部越前守宗寿はこれを聞いて百余名の兵を引き連れて那佐の港に押し寄せた。海部宗寿は「かねてより長宗我部殿には恨みあり、まして告げもなく我が城下に蜜み入るは不埒千万である、折よくも今日は一戦に及びたい」と怒鳴った。弥九郎も「今は病臥の身であるも、不慮なる一戦の場に果てるは無念なれど、その方達も覚悟いたされ」と太刀の鞘を抜きはらった。しかし、病身の上に多勢に無勢、兄元親に引けをとらない豪者であったが、弓や銃撃を一斉に浴びて、家来もろとも悲壮な最期を遂げたのであった。これを聞いた元親は激怒し、かねてより海部の諸城を攻め落として、阿波に侵入しようとしていた矢先の出来事であった。
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海部(鞆)城跡 | 海部(鞆)城跡遠景 |
参考文献 鎌谷嘉喜氏著「阿波古戦場物語」
「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編
徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」
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