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ベイシー写真館

安土桃山時代〜その壱

長宗我部元親が居城した岡豊城跡

■ 長宗我部元親の四国侵略

 戦国時代の群雄割拠。夢のような理想に燃えた戦国大名は京の都にわたりをつけて、中央の諸侯と結びつき、王者への道を切り開こうとした。しかしそれは容易ではなく、野望ともいえる夢であった。とるべき手段は、覇者として戦い抜き勝つより他なかった。戦国の動乱期、天正四年(1576)、織田信長が安土城を築いて、天下統一の端緒を開いた。その頃土佐の長宗我部元親が信長に取り入って支援を請い、四国内を統一しようとした。父国親の後を継いだ元親は、歴代の居城であった岡豊城(南国市)を本拠として、国内の土豪を討伐して土佐一国の統一を成し遂げた。天正四年(1576)頃、阿波を侵略し始めた元親は、信長のもとを訪れて、この願いを申し出た。しかし信長は阿波の海部、那賀二郡を加えて土佐一国を与えてもよいが、四国全体を支配することは許さなかった。元親は他の諸侯にも取り入って八方手をつくしたが信長がうんと言わねば不可能であった。だが元親は信長の命に従わず戦で勝利を得て覇者になることを決意した。元亀二年(1571)の春、元親の末弟、島弥九郎親益が、海部の那佐港で殺された報復として海部城を攻め、これがきっかけに阿波東部の諸城をつぎつぎ倒し、その勢力が阿波全土に伸びつつあった。信長はこれを重大視して、四国討伐の軍をおこし、すでに元親の手中にあった一宮城、夷山城を攻めて占拠した。信長は主力の配下の軍と京都と阿波の三好一族の軍勢で長宗我部への討伐が始まる寸前に天正十年六月、本能寺の変が起きた。 このことで信長の軍は兵を引いて阿波を去ったが元親は好機到来とばかりに天正十年八月、元親は二万三千余の大軍で勝瑞城に押し寄せた。中富川の合戦で大勝利を収めた元親はついに阿波全土を手中におさめた。四国内で一番重く見た阿波を従えた元親は、ついで讃岐、伊予を攻略し天正十二年(1584)ようやく全四国を収めるに至った。
同年四月、尾張小牧、長久手の戦いで、秀吉と家康が争ったが、元親は家康が有利とみて徳川方を支援し、家康が勝利したのちは、四国全土は無条件で与えられることが約束されていた。しかし予想が外れて両氏の和睦が成立して、秀吉が征夷大将軍となった。元親はその後、秀吉に和を申し入れて四国の領有を要請したが、秀吉はこれを許さず阿波、讃岐、伊予の返還を命じた。秀吉の命令を不服とした元親は決戦に応じる決断をし、それ以後元親は、白地城を本陣として、鳴門の岡崎、木津城、徳島の一宮城、美馬の脇町、岩倉城、南は牛岐城(阿南市)、牟岐城(海部)等に将兵を配置して、防塞陣地を固めて、豊臣氏の来攻に備えた。

■ 中富川の合戦

中富川の遺流、前川・正法寺川の分岐

阿波勝瑞城を本陣とする旧三好方の十河存保と、土佐の長宗我部元親が、天下分け目の決戦を繰り広げたのが、中富川の合戦であった。
天正10年(1582)8月、阿波方が最後の拠点となった勝瑞城に向かって、元親の軍勢が総攻撃をかけた。長宗我部の軍勢総数二千余が国境の甲浦、宍喰を経て六十余里の南海道を北進、途中阿南牛岐城に入り、二十六日には夷山城、一宮城に入り勝瑞城を目指した。翌二十七日に国府井戸寺で総勢は集結して、軍勢を三隊に分けて、弟親泰が率いた三千余は中富川の南岸に到着した。翌二十八日には元親も参陣し全軍に出撃命令を下した。
阿波方の国主三好長治は五年前、土佐勢との戦いで敗死したので、弟十河存保が守護代となり、勝瑞城に本陣を構えていた。
存保も国内の諸城に非常線を張り、精鋭の将兵約五千を招集し、勝瑞の南の矢上城を先陣とした。この城は豪勇矢野伯耆守と、その子備後守が守る要城で大手門の矢上に二千、後陣に三千を配し鉄壁の防塞を築いた。二十八日の正午頃、元親の号令で土佐の先陣が渡河を開始、信親、親吉の主力が東南より、香宗我部親泰が西南から、約一万四千余が両翼から攻め立てた。さきに元親に和を乞うて土佐勢に加わっていた一宮長門守成助(一宮城主)、桑野河内守康明(桑野城主)が六千を率いて押し込んだので兵の数はさらに増えた。阿波勢はよく戦ったが、多勢に無勢ついに勝瑞城まで追い詰め城を包囲し、落城寸前となった。しかし九月五日台風の襲来で豪雨が五日間続き、吉野川、中富川は氾濫してあたり一帯濁流で湖となり駐屯の足場を失った土佐勢は民家の屋根や木に登り避難した。これを好機とみた阿波勢は小舟に乗って、水浸しとなって手も足も出ない土佐勢を長柄の竹やりでブスブスと串刺しにした。のちに阿波の「鳥刺し舞い」が流行ったのは、この戦法によるものだといわれている。
土佐勢はようやく濁流が退き去ってから再び陣形を建て直し猛烈な攻撃を再開した。戦場の内外で入り乱れた白兵戦は物凄く凄惨な有様だったという。矢野伯耆守と備後守父子は親泰の家臣下司彦之丞に首討ちされ、一方阿波の山田陸太夫(住吉城主)は、元親の重臣で土佐の穴内、新庄の城主吉田左衛門を血祭にあげたのも武勇伝として有名である。九月二十一日、存保は元親に降伏の誓詞を入れ城を開場した。勝瑞城を明け渡した存保は、元親の免罪をうけ讃岐の虎丸城に退くこととなった。

中富川

元亀・天正年間(1570〜1585)にこの戦いで戦没した主な城主

矢上城主矢野伯耆守虎村伯耆守の小矢野備後守下六条城主三好何右衛門南島城主甘利奥佐衛門
坂東城主坂東肥後守清利肥後守の弟坂東五郎衛門七条城主七条求馬兼仲乗島城主乗島入道来心
板西城主赤沢信濃守宗伝信濃守の子赤沢鹿之丞保崎城主馬詰駿河守高畠城主高畠宇右衛門時清
西条城主西条益太夫北原城主北原右近義行知恵島城主知恵島源次兵衛重綱日開城主鎌田久馬右衛門光義
第十城主第十拾太夫拾太夫の兄飯田半右衛門徳里城主白鳥右近下浦西城主田村盤右衛門
鈴江城主鈴江新兵衛友明櫛渕城主櫛渕左近国武長塩城主長塩六之進大寺城主大寺松太夫
野本城主野本左近大代城主大代内匠佐野須賀城主佐藤久右衛門長勝瀬部城主瀬部喜右衛門友光
高志城主高志右近飯尾城主飯尾善之丞常重中島城主片山岸右衛門角田城主角田平右衛門
湯浅城主湯浅豊後守福井城主芥川兵庫守宗長大潟城主四宮外記光武古川城主古川亀右衛門友則
市楽城主石河六之進吉行中庄城主中庄主膳新居城主堀江藤太夫国正原城主原田源左衛門信綱
香美城主香美馬之進吉田城主原田小内膳姫田城主姫田甚左衛門由岐城主由岐隠岐守有興
犬伏城主犬伏左近

その他、主な武将

讃岐大内城主寒川三河守讃岐三河守の同族寒川権之丞讃岐宇多津城主奈良太郎左衛門
竹内笹右衛門近藤内蔵助野中玄蕃光富新左衛門堀口藤太郎安養寺左馬之助
原田久左衛門清久三之丞内藤助太夫由来善右衛門鵜無瀬亀之丞延原兵衛進
岡本甚之丞由岐善左衛門多度津修理亮粟飯原平之丞川藤菊太夫新居川州右衛門

勝瑞城跡矢上城跡住吉城跡矢野備後守の墓
板西城跡犬伏城跡赤沢信濃守宗伝廟所板西城将兵の墓
香美城跡瀬部城跡犬伏左近を祀る大富彦神社戦没者を祀る若一王子神社

■ 重清の合戦

重清城跡

戦国時代、悲劇の城主小笠原豊後守長政は、阿波の三好氏の重鎮で、長宗我部元親の侵略に対して最後まで抵抗しつづけた。
天正五年(1577)、白地城の大西安芸入道覚養を倒した元親は、覚養に重清城攻略の命を下した。大西出雲守頼武(覚養の父)の娘を妻とした長政は、覚養と義兄弟のなか、戦わずして土佐方に引き入れようとしたが、長政はこれに応じなかった。これまで三好や美馬の諸城を落としてきた元親は武力で重清城を落とそうと城を攻めること数回に及んだが小笠原勢の守りは堅く容易に破ることが出来ない。そこで元親は得意の和睦戦術を図った。義父頼武や覚養を通じて長政に和議を申し入れた。縁者のとりなしで和議に応じた長政は、土佐方に転じることを約束したが、実は密かに三好氏と内通していたので、反逆されるかも知れない長政を生かしておくことは将来不利に働く恐れありとの判断でついに謀殺を図った。
 天正六年(1578)一月、覚養の弟大西上野介は久米刑馬亮(従弟、中鳥城主)と蜜謀の上、重清城外の馬場で馬追いの行事を催すのでと、会合を申し入れた。長政はよく受け入れ、盛大な行事も終わり、やがて上野介と刑馬亮を招いて酒宴たけなわの時、城外から上野介と刑馬亮の伏兵数人が長政に襲い掛かった。深酔いの長政は油断して踊りを興じていた。刑馬亮は長政に切りかかったが、その場に居合わせた二男左近が刑馬亮に襲い掛かろうとしたが、同席した覚養の弟大西七郎兵衛の助太刀によって刺し殺された。長男尾張守長定が不在中だったが、この凶変で直ちに勝瑞城に通報して、十河存保が援軍を送り守りに備えた。その後同年一月、土佐勢は再び軍を起こして三法から攻撃を始めた。長定は先頭に立ってよく戦ったが、相手は多勢で城館はすでに炎に包まれたため北方の山に逃れた。長政の夫人は子供を連れて讃岐の虎丸城に避難し、長定は岩倉城に逃れた。重清氏を破った覚養は重清城を手に入れたが、まもなく十河存保は、三千の兵で急襲し覚養を追い払った。覚養は兵と共に白地城に引き上げの途中、三好郡の川端で十河勢の追っ手に捕らえられて殺された。城を奪回してのち、存保は勝瑞から援軍を送り三好越後守重平が居城したが、同年夏ころ、土佐の久武内蔵助が数千の兵で攻め入り、吉野川両岸で激戦され、十河勢は多勢に効しきれず勝瑞に退いた。重清城が土佐方に完全占拠されたが、その後岩倉城の三好式部少輔盛隆、脇城の武田上野介信顕も致命的な打撃を受けて、土佐方に屈した。

重清城重清城虎口重清城土塁小笠原神社
堤防上から見た
中鳥城跡(伊射奈美神社)
伊射奈美神社記念碑初代城主浅野但馬守墓白地城跡
白地城跡

■ 白地の合戦

 建武年間、田原藤太秀郷の末裔といわれた近藤京帝が、大西郷の地頭職に任じぜられて、支配を始めたのが築城の始まりといわれている。南北朝時代、阿波の山岳武士が、伊予の得能、河野氏、讃岐の羽床、十河氏と結んで活躍した本拠地であった。大西出雲守頼武は三好長慶に仕えて畿内で活躍し後に入道覚養を名乗った。三好家の重臣であった覚養は、勝瑞城主三好義賢の妹婿で権力・財力ともに隆々であり、白地城を中心に十余城の支城を構えてがっちりした防御網を張っていた。四国制服の野望を抱いた長宗我部元親は、阿波を第一の侵略地と決め四国の中心で、その上要害堅固な白地城を手中に収めて、本国の岡豊城を長男信親に与えて、自身は四国の総大将となり居城しようと考えていたようである。天正4年(1576)、元親は阿波の南部を攻略しながら、西部から東への進出を企てていた。しかし土佐から白地までの進軍は容易ではなく、国境から七里の道は高嶺の山道、峰の底は三里にわたる険しい川沿いの道で、まして大歩危、小歩危の難所がある。強い大西氏を武力で攻めるのは不利の為、元親は懐柔策を考えた。足摺山の万福寺の住職了秀に近寄り、了秀の執り成しで覚養を説得して土佐方に引き入れ、弟頼包を人質として和平を結んだ。天正5年(1577)四月、上野介の案内で元親の重臣蓮池左京進が千余名の兵で三好郡に攻め入り、まず大西右京進頼信(覚養弟)、大西源佐衛門が守る田尾城を攻め落とした。その後土佐の主力は三隊に分かれ白地城の攻撃にかかった。防陣の大西勢は相川橋付近まで出撃したが兵の中に乱れが生じ戦局が不利となり、策が尽き果てた覚養は、妻子を避難させ、猪鼻峠を越えて讃岐の麻城に逃れた。天正5年(1577)5月、白地城を乗っ取った元親は、城を拡大して自らの居城として、四国攻略の本陣としたのである。

白地城址白地城址説明板二の丸跡本丸跡の大西神社
田尾城址田尾城登城口田尾城説明板田尾城石柱
田尾城本丸田尾城本丸の土塁堀切り土佐軍指揮所跡
轟城跡

■ 轟の夜戦

 名西郡浦庄で(石井町)内で、三百貫を領した近藤勘右衛門尉正次が、轟城に居城していた。北には沼底深い飯尾川が流れ、南は気延山があり、その麓には童学寺や、数多くの塔堂寺院が建っていた。城は河岸の丘の上に築かれた平城であったが、屋敷の西、南、東三方は飯尾川の水を引き入れ、コの字形の広い水掘りがあった豪壮な城構えであった。
天正9年(1581)頃、阿波国内は危急存亡の時期で、土佐方の勢力が海部、那賀の諸将をことごとく倒し、やがて大栗山にも伸びて一宮長門守成祐を引き入れた。大栗山に布陣を固めて、数千の兵を一宮城に詰めた土佐方の将、野中三郎左衛門尉等が、一宮の手勢を加えて勝瑞の本陣に迫る秘策をねっていた。重臣を集めて開いた軍議で最初の攻撃目標となったのが轟城である。しかし累代三好氏の旗本で、あなどりがたい武勢を持っている近藤氏の陣地。やむなくこれまで睦臣であった成祐を通じて和睦提携を申し入れたが正次は応じなかった。正次は、近藤若狭守、近藤正行、近藤加賀守、久米石見守、久米和泉守、久米川大炊頭、田村瀬右衛門など、同門一族の出城に非常線を張った。この外、近在の諸士が率いた三百余の地侍と勝瑞の十河存保が率いた援軍二千で戦機に備えた。同年九月、一宮城に駐屯した土佐勢約三千が、気延山を越えて石井の南部から侵入し付近の民家や寺院に火を放った。兵を分散した近藤勢は始め優勢であったが多勢に無勢で抗しきれず、ついに落城した。この時、童学寺の境内に陣取った近藤勢と、土佐勢との間で激しい剣激戦が展開された。当時この寺の太師堂の柱に深く切りこまれた刀痕が残っている。

轟城跡片の丸城跡一宮城跡一宮城才蔵丸跡
童学寺刀傷が残る太子堂

■ 脇・岩倉の合戦

脇・岩倉城跡遠景

 下剋上のこの戦国時代、世の常として、ひとたび戦乱の渦が起こると、壮絶な戦火の巷と化した。脇・岩倉城も何度か、血生臭い合戦の場となっている。三好長慶に仕えていた武田上野介信顕(信玄の異母弟)が、長慶の命を受けて大和国(奈良県)から脇城へ入城したのが弘治二年(1556)で、長慶の弟三好豊前守義賢の臣であった。信顕が入城して約22年後、阿波に攻め入った長宗我部元親が天正6年(1578)頃、三好郡の諸将を降伏させ、更に強硬な抵抗を続けていた重清城も落ちた。信顕も近郷の諸士を失い土佐勢の猛攻に立ち向かっても勝ち目は無い。阿波の西部を抑える最大の城も遂に元親の計略に陥ち入って土佐方の陣営となった。これに憤激した勝瑞方の十河勢が脇、岩倉、上野城に総攻撃をかけたが優れた鉄砲隊の猛射と長槍による甲州戦法の攻撃で十河勢は大敗した。この合戦の3年後の天正十年(1582)、織田信長は元親の勢力を阻止するため三男信孝に四国討伐を命じ、三好康長(笑岩)を阿波に派遣、土佐方に組みした一宮、夷山城を攻め落とした

脇城跡脇城主郭T跡主郭Tと主郭Uの間の堀切脇城主郭Uの北東部
岩倉城跡岩倉城跡本丸虎口武田信顕の墓
茨ヶ岡城跡

■ 茨ヶ岡の合戦

 戦国の下克上の時代に生まれた細川掃部守真之は、不運の生涯であった。天文年間(1531〜1554)の阿波下屋形、勝瑞城の細川讃岐守持隆の長子として生まれ、当然国王の座を受け継ぐべきであった。しかし時既に室町幕府の実権は、三好長慶の手中にあって、執事の身でありながら長慶の弟、三好豊前守義賢が権勢をふるい、天文21年6月、義賢は勝瑞の見性寺で持隆を殺した。持隆の正室藤郷は、子に恵まれなかったので板野西条城主岡本美作守清宗の娘を侍女として、のち正室となって小少将と呼ばれ、この間に真之が生まれた。絶世の美人であった小少将は持隆が噂に上っていた義賢と通じ、持隆亡きあとは公然の室となり、長治、存保(讃岐、十河家相続)を生んだ、真之と長治は異父の兄弟である。その後、義賢は永禄5年、久米田の陣で破れ殺された。細川、三好一族や重臣で詮議の上、国王は長治が相続する。長治の兄とはいえ今は亡き父持隆は、長治の実の親義賢に殺されている。平素より心良く思わず、まして無き者同然の扱いに耐え切れなかった真之は、ついに勝瑞城を去ることになる。天正4年(1576)、仁木伊賀守、林宮内(喜内)と外足数名と密かに城を出て勝浦の福良出羽守連経(棚野城主)のもとに頼った。この時細川氏に好意を持っていた近郷の大栗右近、服部因幡守、森監物、栗田宇右衛門、中津野六郎右衛門が真之を那賀郡の仁宇谷に導いた。真之は大龍寺山の南麓八幡原に茨ヶ岡城を築いた。当時阿波の南部は長宗我部の勢力に抑えられ、真之も元親に加わった。長治はこれを知り天正五年(1577)頃、勝瑞の篠原自遁の軍勢が押し寄せたが仁宇谷には容易に侵入できなかった。同年三月、真之 は一宮氏らと共に土佐勢に今切城、勝瑞を落とし長治を自害に追い詰めた。しかし二か月を過ぎた頃、突然土佐の軍勢に攻め込まれ真之は自害に追い込ま れた。勝瑞城内で御殿君と敬まわれていた真之の最期は、実に悲しい一生であった。

茨ヶ岡城跡茨ヶ岡城石碑茨ヶ岡城祠茨ヶ岡城五輪塔群
南より見る茨ヶ岡城跡道路脇にある細川真之の墓の案内細川掃部頭真之墓石板細川掃部頭真之墓
陣ヶ丸古戦場遠景

■ 陣ヶ丸の合戦

■ 海部の合戦

参考文献  鎌谷嘉喜氏著「阿波古戦場物語」「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編
     徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」