■徳島県の他の古城跡
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■四国の城郭
■中国の城郭
安土桃山時代〜その弐

■ 丈六寺の事変
白雉元年(650)、天真正覚尼が創建し、朱鳥年間(668〜700)に行基作の丈六観音像が安置されて以来、浄楽寺(尼寺)を寺号丈六寺に改めた。境内には本堂以下九つの伽藍があり、周囲には阿波の武将その他由緒ある墓がある。
寺格が高いこの寺は、尊厳な寺院としても有名だが、牛岐城主新開遠江守入道道善が長宗我部元親に、だまし討ちされた悲劇、その史実にまつわる「血天井」の伝説でもよく知られている。
天正十年(1582)八月から九月にかけて長宗我部元親は、
勝瑞城を総攻撃によって戦勝し、同月二十一日、十河存保は開場して讃岐の虎丸城に引き上げた。元親の四国制覇の夢は思惑どおりに運んだが、讃岐・伊予の平定に先だって、阿波の主要な武将の成敗にとりかかった。これまで表面上手なずけてきた武将は、新開道善のほか一宮長門守成助、細川掃部頭真之であった。武力と和解戦術で土佐を手中に収めた元親は、阿波で得た武将を排除するには、彼等は生かしておけない存在であった。先ず最初の槍玉に上がったのが道善であった。
元親の命によって久武内蔵助親秋が、八万村の円光寺の僧侶を通じて道善に、丈六寺で和合の宴を開きたいと申し入れ、九月一日、道善を招いた。早朝より、山海珍味のもてなしで酒宴に興じた道善は緊張の心をゆるめた。親秋は、境内に二百人余りの兵を配置して間隙を狙った。酒宴の席で親秋は「元親殿は、貴殿に勝浦郡内一円を加増する所存のようである」と道善を喜ばせた。満悦の道善は気分をよくして座を立って、丸腰のまま書院の外縁に出た。その時、潜んでいた土佐の兵が一斉に襲いかかった。最初に親秋の家臣横山源兵衛が斬りつけ、次いで四方から槍攻めにあい、道善は悲鳴とともに息絶えた。阿波の守護細川、三好氏の武将であった新開氏は阿南の重鎮であったが、天正八年(1580)牛岐城の落城以後、誓いを結んで土佐方を支援したが、道善の実力に恐れをなした元親は、和睦の口実で計画通り謀殺の目的を果たした。道善が殺害された時、返り血を浴びたといわれる徳雲院の血天井、これは方丈の縁板を天井板に用いたという。
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丈六寺三門 | 徳雲院 | 徳雲院案内板 | 血天井 |
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新開道善城主の牛岐城跡 | 新開神社 | 新開遠江守入道道善の墓 | 新開遠江守入道道善の墓 | ![]() |
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一宮長門守成助の墓 | 細川掃部頭真之の墓 | >

■ 木津・岡崎の合戦
阿讃山脈の西の末端にある木津山の麓に大きな御殿造りの建物がある。天理教撫養大教会だが一見城郭のような風格がある。その北側の山が永禄〜元亀年間(1558〜1572)、勝瑞城の重臣篠原入道自遁(弾正忠実長)が居城した木津城跡である。三好氏が全盛時代に寵愛をうけた自遁は、勝瑞城主三好義賢が大阪久米田の戦いで戦没した後、絶世の美人であった義賢の愛妻小少将との間に、ロマンスの花を咲かせた話は有名である。天正十年(1582)八月からの長宗我部の来攻によって、この城を舞台に激しい戦闘が展開された。元親の軍代、香宗我部親泰が率いた数千の大軍が押し寄せて来た。城下に集結した土佐勢は城を包囲、大編成の鉄砲隊は、木津城の北の袴越山から上部から城内に集中攻撃を加えた。城内の兵はわずか数百名で、連続攻撃を浴びて本丸の建物は焼失、砲弾の嵐の中で城兵はばたばたと死んだ。生き残った兵はほとんど無く落城したのである。自遁の在城は約十年で彼は淡路方面に逃げたらしい。天正十一〜二年(1583〜1584)頃阿波全土を平定してから元親は、東條関之兵衛実光(桑野城主)とその家臣桑名弥次右衛門を配置した。
東條氏は桑野城主の時、元親の養女を妻とした姻戚の間柄で、直属の家来と土佐兵を引き連れて守っていた。天正十三年(1585)七月、豊臣秀吉六万の軍勢が鳴門に上陸し、最初に岡崎城を落とし城将真下飛騨守が木津城に逃げ込んだ。長宗我部軍のこれまでの戦術は敵に突入する戦法で多くの兵を失っていた。しかし今回の攻め手は天下取りで名高い豊臣の大軍である。この戦いでは篭城守備での持久戦で火花を散らす激戦は避けたが、その戦いは八日間続いたがついに抗しきれず降伏した。土佐に引き上げた関之兵衛は戦略に不手際があったとして、元親に浦戸城内で切腹させられた。
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■ 東山の合戦
阿波の千早城と呼ばれた東山城は阿讃山脈に、東西に王谷、西谷の断崖があり南は吉野川を望んで高くそびえた城山(じょうやま)、山頂に東山城があった。長宗我部元親が不落を誇った東山城を攻めたのは天正五年(1577)三月である。時の城主大西備中守は攻め込んだ土佐軍目当てに用意していた大量の割石を浴びせ掛け獅子奮迅鮮やかな戦闘が繰り広げられた。土佐勢も城を攻めには苦戦したと見えて常套手段として断水の戦法をとった。城主以下、兵たちはすでに一滴の水も無く木の葉や草の根をかじって耐えていた将兵の力は尽き果てた。落城の運命を悟った備中守は自ら城に火を放って敵中に攻め入り白兵戦を展開した。三好市にある「千五百」の地名がある付近が両勢千五百の将兵が討死した と伝られる激戦の中心地であった。
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県道にある標識 | その下にある史跡案内 | 東山城遠景(南より) | 東山城行先案内 |
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東山城行先案内 | 急勾配の長い坂が 約500m続く | 物見櫓 | 東山城址案内板 |
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東山城空掘配置図 | 堅堀に架かる木橋 | 堅堀 | 堀切 |
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堀切 | 本丸南側 | 本丸北側 | 逆茂木 |
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竹束盾 | 竹束盾 | 帯曲輪 | 田ノ岡城から見る城山 |

■ 山口の合戦
元亀〜天正年間(1570〜1573)に篠原三河守、篠原信濃守が守った山口城は、城の規模は小さいが、自然の要害を巧妙に生かして築かれた山城であった。非常の際は西南の黒長谷山が引城となり、東北の黒長谷川の流れが天然の堀となっていたが、これしきの小城を攻め落とすのは、朝飯前と見くびった長宗我部の軍勢は、千余りの兵でこの城を攻めたが、なかなか落ちず二日間城外で鍔迫り合いの戦闘を交えた。三日目の夜、丸太の筏で堀を渡り、西の林下寺(お花大権現)の住職を脅し、僧を忍ばせて火を放った。その時は東風が激しく吹いていたため、城は見る間に全焼した。三河守ほか城兵百余騎は、血路を開いて急坂の山道から逃れようとしたが、土佐兵に待ち伏せされ取り囲まれた城兵のことごとくは討ち死にしたといわれる。生き残った兵六名が大藤峠まで逃れたが追手の兵が押し寄せてきた。生きる望みが尽き果てた六名の落人は、六地蔵峠に登ったところで、互いに刺し違えて自害した。信濃守の子孫は、のちに黒島氏と改姓し、本家筋は北海道に移住したとつたえられる。
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山口城標識 | 山口城跡石柱 | 篠原三河守の慰霊碑 | 主郭跡 |

■ 田尾の合戦
西は黒川谷、東西は伊予川を望み、頼広名の峰伝いに田尾の峰があり、その一角に戦国時代、白地城の前衛となった田尾城があった。天正5年(1577)、長宗我部元親の軍勢は、大歩危、小歩危の難所を経て、白地城の前衛の田尾城を攻撃した。これを察知して、城の周囲に縦横の空掘りを堀り、狭間に数十挺の鉄砲を備えた。城主大西右京進頼信は、当時十五歳にならない若大将であった。大西家の忠臣、寺野源左衛門が側近で、数百人の兵と篭城して、土佐勢の侵攻を防いだ。新緑に包まれた五月、城下の山々には、土佐の軍兵が隠れていた。物見櫓より土佐の軍容を見ていた源左衛門の目前に黒糸絨の武者が見えた。大歩危、小歩危の要所に配置されていた勇士、大黒蔵之丈が土佐方の先兵となって現れた。先に長宗我部と大西氏との和睦のため、土佐方についていた大西上野介頼包(頼信兄)の先陣として加わっていた。田尾城の地理に通じた蔵之丈だが、弓、鉄砲の名人であった源左衛門は「阿波大西家に仕えた蔵之丈が元親の軍門に下り、随臣となって主家に刃を向けるは卑怯千万」と怒り、蔵之丈を鉄砲でうち殺した。蔵之丈の射殺で戦端が開かれた。土佐勢は一気に城に迫ったが国内では屈指の堅城で、城中から、弓、鉄砲、投石等が降り注ぎ進撃できず、土佐勢は、城の大手、搦(からめ)手に兵を分け、正面からの攻撃と見せかけて、夜中に五十名の兵士が藁束を背負って搦手に忍び寄った。城兵が体を休めていた時、突如城の背後で藁束が燃え上がった。城内が騒然として城の背後に廻った時、大手から土佐勢が総攻撃をかけて攻め入った。源左衛門に守られた主将右京進頼信は、危機を脱して相川名に下り、相川橋を渡って、その橋を落とし逃れて、本拠の白地城に入った。田尾城が落城したのを知った大西安芸入道覚養は白地城を去り、一族と共に讃岐の麻城に逃避したのである。
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古戦場田尾城跡標柱 | 田尾城遠望 | 田尾城解説板 | 搦(からめ)手方面の堀配置図 |
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長宗我部軍最前線指揮所 | 山頂の本丸跡 | 本丸跡にある祠 | 戦死者を祀る祠 |
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狭間のある土塀最近作られたもの | 逆茂木 | 虎落(もがり) | 竹束盾 |
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本丸周囲の土塁(芝土居) | 本丸周囲の土塁 | 堀切り堀 | 田尾城への旧道 |
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町名(山城町)発祥の地 山岳武士発祥の地 | 戦死者を偲ぶ句 | 国道319号線脇田尾城への標識 |

■ 栂橋・切越の合戦
天正十三年(1585)七月頃、豊臣軍に降伏して脇城を退いた香宗我部親吉が、残った二百余名の兵とともに本国の土佐へ向かって出発した。吉野川を渡り、西に向かって貞光から一宇山を経て祖谷山を越えて土佐へ出る予定での帰路であった。敗軍の将たちは、出陣のいでたちとはうって変わり兜の錣はもぎ取られ、槍や刀も没収されて沈黙の行進だった。一行が貞光川の土釜の滝から約2kの地点の栂橋、切越の山道にたどりついた。山の人が歩くために開かれた一宇の山道は、谷合が狭く身軽い猫もしり込みするほどで、"猫戻り"ともいわれた細い道であった。土佐の落武者がこの道を通るということが早飛脚で知らされていたらしく一宇山の土豪の小野寺八蔵維延や、谷口城、近郷の山侍を数百名駆り出して待ち伏せた。親吉の一行が、そこへさしかかった時、岩間や木陰から火縄銃や弓で一斉射撃をかけた。不意をつかれた土佐勢は敗軍の武者の身で、武器も無く防戦の術もなくばたばたと倒れた。維延が狙った強弓の一矢が、ひときわ目立つ鎧武者の親吉のわき腹を貫いて、即死状態で倒れた、土佐の兵ほとんどが、一宇の惨劇であえない最期をとげたのであった。
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栂橋・切越古戦場跡 | 栂橋・切越古戦場跡 | 栂橋・切越古戦場跡 | 土釜 |
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土釜の滝 | 谷口城跡 | <>

■ 長生・濁ヶ渕の合戦
牛岐城主、新開入道道善(遠江守忠之)は、勝瑞城主三好実休(豊前守義賢)の姪を妻とし、三好家とは血縁深い主従の間柄で実休は道善を重鎮とし優遇した。しかし、実休は永禄五年(1562)、泉州久米田で戦没、国王は三好長治に変わった。其の頃、長宗我部元親が、南方より侵略を企て、天正四年(1576)、海部、那賀の諸城を攻め落とし、牛岐城の攻略に及んできた。元親は以前から桑野城主東条関之兵衛実光、縁者の久 武氏の娘を嫁がせて親族を結び、長生の西方城東条紀伊守、本庄城清安芸守を味方に引き入れた。関之兵衛の指図によって紀伊守、安芸守は、土佐方にわる様再三道善に働きかけたが、頑として応じなかった。以来道善と関之兵衛の間にはいざこざが絶えず何度か衝突した。天正七年(1579)道善は桑野に押入って東条氏の領内の田・畑の農作物に甚大な被害を与えた。この事件は麦薙ぎ田返しの騒動といわれ、長生・濁ヶ淵の合戦の発生に及んだ。

■ 上大野の合戦
那賀川の河口より13km程上流に南へ大きくカーブしている、その川沿いに富士型の山が高く聳え、遠くからも人目に映るこの山が上大野城跡である。永禄八年(1565)、仁木伊賀守高長が築いた山城である。天正四年(1576)、細川持隆の子真之が、三好長治に耐えかねて、勝瑞城を出て上大野城に立ち寄った。高長は真之を勝浦の飯谷、棚野城主福良出羽守連経のもとへ送った。太龍寺山の麓の茨ヶ岡に真之を導いて城を築き、勝浦方面に居城した細川家の旧臣、大栗右近、服部因幡守、中津野六郎右衛門、森監物等が真之の警護に当たった。真之が仁宇谷に入って一年後の天正五年、三好長治は兵を率いて阿南に入り、牛岐城の新開道善も加わって新野口に攻め入ったが、一宮長門守、伊沢越前守が三好方の背後から押し寄せてくる状況となり、ひとまず長治は新野より兵を引き上げた。この時三好軍は、今切城付近で、一宮、伊沢軍が一挙に攻め入って大敗した。
参考文献 鎌谷嘉喜氏著「阿波古戦場物語」「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編
徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」
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