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江戸・明治時代

■ 益田豊後事件(海部騒動)(ましだぶんごじけん)
蜂須賀家は阿波・淡路の2国を領地とする四国一の外様の大大名でその蜂須賀家の家老を務めた益田豊後は、同家の支配の基礎を確立した家祖の家政とは従兄弟に当たり、同家の一族として、重要な地位にありました。しかも、益田家は家臣団の中では、首席家老稲田家、次席家老賀島家に次ぐ家格として、強大な権限を持った有力な家老で海部城番の際は5500石を与えられた家臣であった。これに対して、益田豊後と対立した家老の長谷川越前は、蜂須賀家の家老の中では、ほぼ下位に位置する家老でした。
1633年(寛永10)、海部郡の知行地をめぐる益田豊後の不正が蜂須賀家の役人によって摘発され、その結果、豊後は家老職と領地とを没収され、投獄されて領地を召し上げられ、その後13年間名西郡大粟山(神山)の山中に幽閉されました。 これを恨んだ豊後は1645年(正保2年)までに、義弟の金沢藩主前田家の浪人阿彦佐馬丞を利用して、徳島藩主の蜂須賀忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えた。 1646年(正保3年)、幕府は評定所にて長行と徳島藩の家老である長谷川貞恒を対決させた。結果、豊後の訴えが虚偽であったとして長行の身柄は忠英に預けられた。そして江戸から阿波へ護送中、病死。しかし、蜂須賀家では、豊後がたまたま病死せず、阿波に護送された場合、藩主に対するいちじるしい反逆行為として、豊後を最高の重罰である斬罪の処分を行うつもりでした。
この事件は、蜂須賀家との一族関係をバックに、権力を乱用した家老と幕藩体制の中で、新しい時代に立ち向かおうした官僚的な家老長谷川越前との対立が原因でした。幕府でも、この事件を重視し、『徳川実紀』に裁決のようすを記録しています。こうして、蜂須賀家の根幹を大きく揺るがせた御家騒動は、13年間におよぶ長い年月を費やして集結しました。
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海部城址石碑 | 海部城址 | 曲輪址 |
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城主森志摩守と判形人の墓 | 判形人跡石碑 | 切岸 |
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城跡と判形人館跡の間の切通し | 東南部の登城口(現在津波避難の階段) | 海部陣屋跡 |

■ 庚午事変(稲田騒動)(こうごじへん)
明治初年、王政復古のもと、明治維新が進行し、六百七十余年にわたる武家政治が終わりをつげて、明治の新政が始まった。明治二年、「版籍奉還」が行われ旧藩主は知藩事、藩士は士族・卒族となり、禄制改革によって、家禄は石高の10分の1となった。稲田家臣の多くは卒族に編成されることに決まり、不満が強まった。佐幕寄りであった徳島藩に比べ維新期には多くの勤皇の士を輩出し活躍した稲田家側は強力な嘆願運動を続けていくことになり、そのことに疑念を強めていた徳島藩士等の憤慨が高まっていった。

稲田家の家臣は、本藩の直臣でなく陪臣であって、士族ながら卒族の身分におかれて冷遇され俸給も減給されていたのを大きな不満をもっていた。藩では稲田家の分藩運動は、蜂須賀家に対する謀反であると激怒した藩士は、ついに武力行使にでたのである。
明治三年(1870)五月十二日の夜中、徳島の福島操錬所内に於いて、藩士の南堅夫ら四名の志士が、藩兵に対して「稲田家の行動がふとどきである」との檄文をとばした。その翌日十三日の未明、藩内の血気に逸る藩士たちが、淡路の洲本城を急襲する重大事変が起きた。その頃の洲本城は徳島藩の筆頭家老、稲田九郎兵衛邦植が淡路一円を治めていた。稲田家は、蜂須賀家とは、藩祖正勝の時代から血を分けた家柄で、実収禄高六万石に及ぶ城代家老で、淡路一国の大名領主でもあった。藩の軍勢は、銃士百余名、銃卒四大隊、大砲四門をひいて洲本城下の稲田家の本邸、学問所「益習館」、家臣の下屋敷などを襲って、焼き討ちをかけ焼失家屋二十五戸の被害を出した。この時稲田方はほとんど抵抗しなかったため、重大事には至らなかったが、自殺者二名、死者十五名、負傷者二十名の犠牲を出した。
洲本城への攻撃と同時に、美馬市脇町猪尻の稲田家の別邸を襲うべく進発したが、名西郡石井町下浦の地蔵堂付近で、藩の観察下条勘兵衛、弁事牛田九郎が待ち受けて阻止しようとした。しかし激昂した藩士らは、その制止を聞き入れず稲田邸に向かおうとした。責任感に耐えかねた勘兵衛と九郎は下浦の願成寺で、寺僧の説得や制止を聞き入れず方丈の間で切腹した。この突如起きた凶変に驚いて、討手の兵達は思いとどまり、第二の悲劇を避けることが出来た。国内外に衆目を浴びたこの事変は稲田騒動ともいわれ、阿波史上最後の騒乱であった。
その後、事変の処理として政府は、攻撃を加えた首謀者、新居与市之助(号水竹)、小倉富三郎、大村純安、平瀬伊右衛門、多田禎吉、南堅夫、小川錦司、三木寿三郎、藤原次郎太夫、滝直太郎等十名が斬罪(後に蜂須賀茂韶の嘆願により切腹)、この他、終身流罪二十二名、七年間の流罪一名、禁固刑四十六名、謹慎四十四名の処分を受けた。
明治三年九月、刑の執行が行われて首謀者の内八名は、徳島市万福寺、住吉島の蓮花寺で切腹。同月十五日、最高指導者の新居与市之助(儒者、号水竹)、小倉富三郎(学館菅事・槍術指南役)の二人は東京芝の白金の藩邸で切腹の処刑を受けた。これらの切腹刑は、わが国刑罰史上、最後の処刑であった。また流罪者は九月十一日、伊豆大島の新島へ送られた。
首謀者として切腹 | 攻撃隊の司令として終身流刑 | その他の主な処罰者 |
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新居水竹(総司総頭) | 上田甚五右衛門 (洲本大隊司令) | 海部閑六(岩倉家家扶)・・・終身流刑 |
小倉富三郎(学館管事) | 平瀬 所兵衛 (洲本台場司令) | 海部六郎(岩倉家家臣)・・・七年流刑 |
大村純安(学校書生 洲本) | 穂積 問兵衛 (洲本農兵司令) | 小野又兵衛(銃士隊司令)・・終身禁固 |
平瀬伊右衛門(牧民従事 洲本) | 織田角右衛門 (洲本台場司令) | 山田 貢(銃士隊司令)・・・終身禁固 |
多田禎吾(牧民検事 洲本) | 小川 金次郎 (洲本農兵司令) | 阿部興人(文学助訓読)・・・終身禁固 |
南堅夫(応接役) | 芝 六郎(文学教授)・・・・禁固3年 | |
三木寿三郎(兵士) | ||
小川錦司(兵士) | ||
瀧直太郎(学校書生) | ||
藤岡次郎太夫(兵士) | 県立文書館より抜粋 |
襲撃を受けた稲田九郎兵衛邦植と家臣達は全員士族籍を得たが、北海道移住(日高、静内町)を命ぜられ開拓民として未開地の開拓に従事しました。開拓移住を命ぜられた七百六十余人は明治四年北海道に渡ったが、その後第三次移住団は船で向かう途中、和歌山県沖で遭難八十余人が溺死した。その後この庚午事変は徳島県の県域にも影響を与え、明治十三年、淡路は兵庫県に編入されることになった。
舟山馨の{お登勢」は、この庚午事変を題材にした小説で、また吉永小百合主演の映画「北の零年」もやはりこの事件を扱っています。
参考文献 鎌谷嘉喜氏著「阿波古戦場物語」「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編
徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」
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