室町時代に小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まり。中世後期になると明智光秀が、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、破れて自刃した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。
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別名 | 臥龍城・八幡城・福知山城・掻上城 |
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城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | 複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築) 現在:外観復元(1985年(昭和60年)再) |
築城主 | 明智光秀 |
築城年 | 1579年(天正7年) |
主な城主 | 明智氏・朽木氏 |
廃城年 | 1873年(明治6年) |
遺構 | 曲輪、石垣、井戸、移築番所・門 |
指定文化財 | 福知山市史跡(石垣部分) |
再建造物 | 大・小天守・釣鐘門 |
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