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ベイシー写真館

美馬郡つるぎ町 貞光城(さだみつじょう)

平城
別名野口城
所在地徳島県美馬郡つるぎ町貞光字野口
120m×230m
此の城は重清城主小笠原豊後守長政の長男尾張守長定が築いた。天正6年12月、長定は、南方2kにある谷口城を襲い、城主を殺して貞光一帯を手中に収めた。しかし天正7年夏、長宗我部元親は北阿波侵攻作戦を開始し、重清城を落とし、ついでこの城を攻めて長定の子、尾張亟助は戦死し、小笠原氏は滅亡した。
天正5年(1577)
小笠原長定
『城郭大系』に拠ると貞光小学校が本丸跡でその北東にある観音堂(今は無し)あたりが搦手(裏門)、南の熊野神社あたりが大手門で、深さ3m幅5mの空堀もあったそうだが現在は全てなし。
貞光城 貞光城 貞光城 貞光城
貞光城跡貞光城本丸跡貞光小学校観音堂跡(搦手口)
googlemap

つるぎ町 家賀城(けがじょう)

城の形態山城
別名内山城
所在地徳島県美馬郡つるぎ町貞光字家賀道上
規模200m×200m
城の歴史麻植氏は阿波忌部の正統といわれ、代々忌部神社の大宮司をつとめ、美馬郡一帯に大きな勢力を持っていた。天文22年(1553)、勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に殺されが、忌部神社は細川氏の祈願所でもあった。忌部の大宮司で内山城主であった麻植忌部守持光は持隆の信任も厚く、名前に「持」の一字を与えられたほどであった。そこで兵を集めて義賢を討とうとしたが、義賢は岩倉城主三好康俊に命じて内山城を攻撃した。城兵は地の利によってよく戦ったが、数日後には城は落城した。持光は阿波郡や讃岐に逃れたが丹生で戦死した、この戦いを内山合戦といい、長年続いた麻植氏の神権政治は滅んだ。
築城主麻植氏
麻植忌部守持光
城の現状貞光から県道438号線を県道225号線に入りそこから約10km強走ると三叉路があり、そこに家賀城の石柱がある。そこから約700m登ったところが城跡地である。高度計を持っていないが標高は1000m近いと思われる。
家賀城 家賀城 家賀城 家賀城
城跡石碑城跡地を下から望む古い石垣が残っていました城跡地からの眺望
家賀城 googlemap
途中の展望台

つるぎ町 谷口城(たにぐちじょう)

城の形態平城
別名別所城
所在地徳島県美馬郡つるぎ町字別所
規模200m×200m
歴史初めてここに館を構えたのは「貞光谷の長者」といわれた山倭屋真人で、平安期の終わり頃である。その孫の山倭屋重成は「阿波の三郎」と呼ばれる豪勇の志で、衛士として安徳天皇に仕えたが、屋島の戦いで一族とともに戦死した。三郎の子重高は阿波の守護小笠原長経に仕えて、子孫は長く貞光谷一帯を支配した。ところが天正5年(1577)12月、貞光城主小笠原長定は八田山で狩りをすると偽って急に山を越え西から襲い掛かり城主の宗春を殺した。宗春の孫重愛・重定は諸国を流浪したのち、岩倉城主三好康俊に仕え、谷口城主に復活した。
築城年代平安末期
築城主山倭屋真人(やまとや まひと)
城の現状貞光城から約2k南へ走ると、438号線と交わる手前に急坂がある。エンジンふかして坂を登りきったところが城跡地である。右手に曲輪跡と思われる広い雑草地がありここが谷口城跡と思われる。
谷口城跡 谷口城跡 谷口城跡 googlemap
墓の辺りが主郭跡谷口城跡谷口城

つるぎ町 半田城(はんだじょう)

所在地徳島県美馬郡つるぎ町半田
別名逸見城・大畠城
歴史
城の現状未登城

つるぎ町 端山城(はばやまじょう)

所在地徳島県美馬郡つるぎ町貞光字宮平
歴史「徳島県の中世城館」によると『阿波志』貞光塁の項に「亦古塁在り端山蜂巣祠上に在り」と記されている他は不詳である。
城の現状県道438号線から端山郵便局の方へ入りそこから約1.3km、端山小学校(廃校)の看板がありその上が城跡地である。城跡地と思われる処は1反ほどの広さがあるが現状は産廃の捨て場になっている。
端山城跡"" 端山城跡 端山城跡 googlemap
端山城跡
(奥の建物は旧端山小学校)
端山城跡蜂巣祠

つるぎ町 見姓寺砦(けんしょうじとりで)

所在地徳島県美馬郡つるぎ町半田字小野
別名天神山城
歴史詳しくは不明
城の現状城跡は天神丘陵の見姓寺あたりが砦跡らしい。現状は見姓寺境内、墓地、霊園などに改変され遺構はなし。北・東西が急崖になっており砦とよばれるにふさわしい場所である。
見姓寺砦 見姓寺砦 見姓寺砦 googlemap
天神山城見姓寺南側から見上げる

つるぎ町 富士権現山砦砦(ふじごんげんやまとりで)

所在地徳島県美馬郡つるぎ町半田字東大久保
歴史
城の現状未登城

参考文献「日本城郭大系」第15巻、香川・徳島・高知編、徳島県教育委員会「徳島県の中世城館」