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別名 | 高梁城 |
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所在地 | 岡山県高梁市内山下 |
城地種類 | 連郭式山城 |
天守構造 | 複合式望楼型2重2階 (天和元年(1681年)改) |
築城年代 | 1240年 |
築城者 | 秋庭三郎重信 |
主な改修者 | 三村元親、水谷勝宗 |
主要城主 | 三村氏、水谷氏、板倉氏 |
文化財史跡区分 | 重要文化財・国の史跡 |
遺構 | 現存天守・櫓・石垣・土塁 |
再建建造物 | 櫓・門・塀 |
城のあった臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる仁治元年(1240)、秋庭三郎重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。元亀元年(1570)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるが、翌元亀2年(1571)に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。江戸時代に入ると城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。中でも水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が1年間の間城番となった。
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