生国の岡崎を離れ、駿府(現静岡市)の今川家で送った人質生活、青年期に織田家と同盟を結び、岡崎から西遠までを支配下におさめ、戦国大名として着実に力をつけていきました。耐え難きを耐え、力を蓄え、徳川三百年の礎となった浜松城での17年間です。
家康の生涯最大の敗戦と言われるのが、元亀三年(1572)の三方ヶ原の合戦です。南下してきた、武田軍2万7千に対して徳川軍1万2千(うち織田軍3千)。天下に名の轟く武田騎馬軍団に多勢に無勢、無残に敗走することになります。この時多くの部下を失い、命からがら城に逃げ帰った家康は、その憔悴した姿を像として残し、生涯この敗戦を忘れないようにしたと言われています。上の像が有名な"しかみ像”といわれる像です。
浜松城案内パンフレットより
wikipediaより
元亀元年、29歳になった家康は、今川の領国だった遠江に進出し浜松城を居城としました。元亀3年10月、上洛の野望を抱いた武田信玄は甲斐を出発。甲斐から信濃に入り、現在の静岡から長野の県境にある、青崩峠、兵越峠を越えて遠江国に進軍し、北遠地方を次々と攻略し南下しました。その後苦戦の末に二俣城を開城させた武田勢は、天竜川を渡り、大菩薩から三方原台地に登り、信玄は強固な浜松城を攻めるより、三方原におびき出して戦った方が有利と考え、大菩薩から三方原を西北進した。家康は直ちに浜松城を出て追撃。
・ 武田方は、北条氏の援軍を合わせ約25,000人「魚燐の陣」
・ 徳川方は、織田氏の援軍を合わせ約11,000人「鶴翼の陣」
数に勝る武田軍に徳川軍は総崩れとなり、家康も九死に一生を得て浜松城へ逃げ帰り篭城、武田軍は追撃をやめ、犀ヶ崖付近で兵士を集め陣を張りました。
徳川軍は反撃に転じるために一計を案じ、犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと崖に白い布を張り、橋が架かっているように見せかけたのです(布橋という地名が残っています)。夜半になって、浜松城近くにある普済寺に火を放ち、浜松城炎上とみせかけて、武田の陣営を背後から鉄砲を打ち込み、信長の援軍が来たと思い込ませ、武田軍を人馬もろとも谷底へ追い落とし大損害を与えました。しかし徳川軍の戦死者は約1000人で家康の大敗北でしたが、当時戦国最強といわれた武田信玄の大軍に果敢に立ち向かったことで、その評価を高める結果となりました。
浜松城案内パンフレットより
天守曲輪より望む模擬天守
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
家康が天下統一を果たし、駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。概ね五万石前後で、浜松藩三百年の間に、再任を含め25代の城主が誕生し、老中に5人、大阪城代2人、京都所司代2人、寺社奉行に4人が登用されています。特に有名な城主は、天保の改革で知られる水野越前守忠邦。唐津藩主時代に昇格のため願い出て浜松藩主となり、後に老中になったといわれています。
浜松城案内パンフレットより