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ベイシー写真館

別名三熊城1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。治興の後は養子安宅冬康(三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ[2]、1581年(天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。
所在地兵庫県洲本市小路谷
城郭構造平山城
天守構造連結式(非現存)
(層塔型4重4階、鉄筋コンクリート模擬 )
築城年代室町時代後期
築城者安宅治興
主な改修者者脇坂氏(山城)、蜂須賀氏(平城)
主要城主安宅氏、仙谷氏、脇坂氏、藤堂氏、池田氏、蜂須賀氏
文化財国史跡
遺構石垣・天守台・堀
再建造物模擬天守閣
洲本城洲本城(下城)
庚午事変とお登勢お登勢像洲本城模型(上城)
下城大手門右堀下城大手門左堀馬屋(月見台)登城口
登り石垣由良城跡由良城跡