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ベイシー写真館

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徳島藩時代の俯瞰図(クリックすると拡大されます)

城山を東西で見た展開図(クリックすると拡大されます)

徳島城藩祖 蜂須賀家政公(徳島中央公園内)


阿波徳島城

鷲ノ門、唯一戦前までは現存していましたが、米軍の無差別爆撃で焼失、その後、一市民の寄付で再建されたそうです。鷲の門を入った広場と国道を超えた現文化センター迄が三木曲輪跡。


阿波徳島城

鷲ノ門右の徳島城石垣に使用されているのと同じ緑泥石片岩の石碑。昔からこちらでは「青石」と呼ばれている徳島ではもっとも多く産出されている石。


阿波徳島城

他県で見られる様な広い大きな堀ではなくこじんまりとした感じ、というのも徳島城は助任川、福島川、寺島川(今は埋め立てられて無し、JRの線路になっている)に挟まれた三角地(現在はひょうたん島と呼ばれてます)、この3本の川が外堀の役目をはたしていて、この堀は内堀になるようですね。中央角が月見櫓跡、右奥数寄屋橋手前、石垣の突き出た部分が屏風櫓跡。


阿波徳島城

大手門枡型虎口を望む。手前の石橋は下乗橋、昔は木製の太鼓橋だったそう。ここから馬や籠に乗ったまま通れるのは殿様か産婆さんらしいね、そのため乗り物から降りて渡るのにこんな名前がついたそうです。左櫓台上の鉄塔は駆逐艦「追風(おひて)」のマスト。


阿波徳島城

大手門左の石垣、こちら右半分だけきれいな切り込みハギの石垣で、左半分やあとの殆んどが打ち込みハギ、あと部分野面積みって処も一部見られます。左奥が太鼓櫓跡。


阿波徳島城 大手門櫓台の上に建つ駆逐艦「追風(おひて)」のマスト。


阿波徳島城

大手門入ってすぐ右の石割り?のための矢穴跡、城があった当時は門に隠れていた場所と思われます。失敗作かな?


阿波徳島城

枡型虎口門出口にある刻印。大か太か?よ〜く見ると他にもあちこちの石垣に残ってます。ここも昔は建物(大手門多聞櫓)で隠れていたと思われる場所です。


阿波徳島城

公園内から見た中央右寄りが太鼓櫓跡の石垣。左手が大手門。実際撮った写真は空一面に電線がぐちゃぐちゃに張り巡らされて見苦しいので消しちゃいました。せめて公園内だけでも地中化できんもんかね。


阿波徳島城

太鼓櫓跡。ここで太鼓を鳴らして今でいう時報をならしていたそう。


阿波徳島城

城の東南角にある月見櫓跡。こんな櫓の上で城下を見下ろして、月をめでたなんて風流ですね。


阿波徳島城


堀の中央北寄りにある屏風櫓跡。櫓といっても長屋風の建物、前の道路から見ると突き出た部分。

阿波徳島城

土塀の支え控え柱に使われていた石柱、太鼓櫓台の石段に代用されています。

別名渭山城・渭津城
所在地徳島県徳島市徳島町城内1他
城地種類平山城
築城年代天正14年(1586)
築城者蜂須賀家政
主要城主蜂須賀氏
文化財史跡区分国指定史跡、国指定名勝

徳島藩のなりたち

 天正13年、阿波国の大名となった蜂須賀家政(1558〜1638)は、居城の徳島城を築くとともに、家老たちを国内の要所に置きます。城下町徳島の建設を進める一方で、農民から年貢を徴収するための検地を行います。
天下人豊臣秀吉が没すると、政権の主導権をめぐる争いが表面化します。慶長5年(1600)には全国の大名を二分する「関が原の戦い」が起き、東軍の徳川家康(1541〜1616)が勝利し、慶長8年(1603)には将軍となり、江戸に幕府を開きました。
関が原の戦いでは、豊臣家の有力家臣であったにもかかわらず蜂須賀家政は中立の立場をとり、領地を返上し高野山に隠居しました。その一方で嫡子至鎮(1586〜1620)を徳川家康のもとに参陣させます。その甲斐あって、蜂須賀家は阿波国を再び与えられました。
徳川幕府は、慶長19年と翌20年の二度にわたる戦い「大阪の陣」で豊臣家を滅ぼし、蜂須賀家は慶長19年の冬の陣に9000人の大軍で参陣し、大きな手柄をたてました。戦後淡路国7万石を加増された蜂須賀家は阿波・淡路25万7千石の大大名となったのです。

徳島城

 徳島城は、吉野川河口部の沖積平野にある分離丘陵の城山(標高61.7m)を中心として、東を福島川南を寺島川(現廃川)・新町川、北を助任川に囲まれた要害の地に築かれている。蜂須賀家政は入封当初は一宮城に入場したが入封早々にこの地に大々的に平山城を築造した。徳島城の城郭修築にあたって、家正は林図書頭能勝、武市信昆に城の縄張りを命じ、豊臣秀吉は小早川隆景、長宗我部元親や比叡山の僧徒に城郭修築の援助を命じている。天正13年11月から6百余日を費やして竣工した。
この城は、山城と平城で構成される連郭式平山城で、山城は城山の頂上に本丸、それより東に東二の丸、西に西二の丸、西三の丸の四つの曲輪で構成されている。平城は城山の山麓一帯に造営されているが、藩主の居住していた御殿(表御殿・裏御殿)を中心に、南は三木曲輪(郭)(現文化センター)、北は北馬屋、西は西之丸屋敷(現内町小学校)や御花畠庭園(現私立体育館、合同庁舎近辺)があった。特に御花畠庭園は岡山の後楽園に匹敵する規模だったそうです。
徳島城の主たる防禦線は、福島川、寺島川、新町川、助任川等を自然の外堀に見立てて、囲まれる地域全体が総曲輪であったと考えられる。また城山を中心に、南を寺島川、北を助任川に挟まれ、東に人工の堀川を掘り、西に西之丸を置く範囲が城郭部分となっており、戦国時代を色濃く残した質素な平山城であった。
徳島城は、もとは猪山城(渭津城)とも呼ばれ、至徳2年(1585)築城と伝えられる中世の山城から始まった。天正13年(1585)阿波へ入国した蜂須賀家政が本格的な築城に着手し、翌14年一応の完成をみた。以後、明治に至るまで284年の間、25万7千石の徳島藩蜂須賀氏の居城であった。
※ 上記解説は徳島城博物館ガイドブックより一部抜粋しました。

徳島城の建設

阿波入部直後は一宮城に居城していた家政は、城の位置が一円を支配するには偏りがあるので、北・南・西の接点である中心地、つまり経済的にも軍事的にも、つまり水軍の展開にも恵まれた場所に居城を移すことを望んでいた。新しい城地の選択をめぐって家政と重臣たちの間には意見の相違があり、軍事的優位性を主張する重臣らは千代ヶ丸(小松島市)を勧めたが、家政はすぐに戦乱も終わるので、領内の繁栄をはかることが大切だと主張して徳島に決定したそうです。
城はすでに中世からあった謂山城と寺島城という、山城と平城を併合して、長宗我部元親や比叡山の僧衆などの手伝普請をうけて急ピッチで工事が進められていった。この突貫工事の徳島城落成については『阿波誌』によると天正14年と書かれているが、他の書物では天正15年7月と書かれているのでこちらの方が正解でしょうね。いくらなんでもたった1年ちょっとでは無理でしょう。
        講談社『阿波の歴史』より一部抜粋しました

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