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ベイシー写真館

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近畿地方

 158 京都府 福知山城 ※ 詳細は別ページ参照
 159 大阪府 芥川山城
 160 大阪府 飯盛城
 161 大阪府 岸和田城
 162 兵庫県 出石城・有子山城
 163 兵庫県 黒井城
 164 兵庫県 洲本城 ※ 詳細は別ページ参照
 165 奈良県 大和郡山城
 166 奈良県 宇陀松山城
 167 和歌山県 新宮城

中国地方

 168 鳥取県 若桜鬼ヶ城
 
 169 鳥取県 米子城
 
 170 島根県 浜田城
 
 171 岡山県 備中高松城
・城郭構造ー梯郭式平城
・築城ー不明
・築城主ー石川氏
・城主ー石川氏、清水氏、花房氏
・松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。
・天正3年(1575年)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった
・天正10年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻め(備中高松城の戦い)に
 かかった。高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落とされていたため、持久戦となった。
・5月8日(5月29日)に入り黒田孝高の献策により城を堰堤で囲む土木工事が開始され低湿地にあった高松城を水没させた。
 世に言う「高松城水攻め」である。。
・6月本能寺の変が起こり、毛利方の軍使安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立させた。城兵の命と引き替えに4日、宗治は切腹。
備中高松城跡清水宗治公陶像高松城水攻めの図本丸へ本丸跡
三の丸跡清水宗治公首塚清水宗治公自刃の地秀吉方高松城攻め布陣史跡舟橋
 172 広島県 三原城
・別名ー浮城・玉壺城
・城郭構造ー梯郭式平城
・築城主ー小早川隆景
・築城ー永禄10年(1567年)
・城主ー小早川氏、福島氏、浅野氏
・室町時代末期 寒川氏に属する四宮右近の居城になる。
・元亀元年(1570年) 三好氏に攻められ寒川氏は城を引き渡す。
・天正11年(1583年) 仙石秀久が入城。
・天正12年(1584年) 秀久は長宗我部軍に引田城で敗れるが、羽柴秀吉の四国平定後に再び秀久が入城。
・天正18年(1587年) 生駒親正が讃岐一国を得て入城するが、同年引田城が讃岐の東に偏っていたので聖通寺城に移る。
・元和元年(1615年) 一国一城令で廃城。
                          
三原城天守台小早川隆景像三原城古絵図小早川氏城跡記念碑明治の天守台周辺古写真
備後国三原城絵図堀西部後藤門石垣本丸西大手門跡
東大手門跡本丸中門跡三原城の歴史「浮城」と呼ばれた名城JR高架下に残る石垣

 173 広島県 新高山城
・城郭構造ー梯郭式平城
・築城主ー小早川隆景
・築城主ー小早川隆景
・築城年ー天文21年(1552)
・廃城年ー慶長元年(1596)
 ・天文19年(1550)、竹原・沼田・両小早川家を掌握し、翌年には高山城に入城、 その後、天文21年(1552)、沼田川対岸に新高山城を築き本城とした。新高山城からは沼田川流域や河口の展望がきき、水運の便が良い為、城替えしたといわれる。
 ・天正8年(1580年)から10年にかけて、三原要害は隆景によりさらに整備が進められ、いよいよ海城としての偉容を現した。
そして隆景は、新高山城から三原城へと本拠を移した。
        
左の山が新高山城、右高山城跡新高山城跡新高山城縄張案内図新高山城縄張図
                                         
新高山城跡登城口鐘の丸番所跡番所跡堀切方々に残る石垣と石段
匡真寺跡匡真寺跡に残る古瓦中の丸跡中の丸跡本丸への石段と崩れた石垣大手門跡
大手門跡本丸跡詰の丸跡釣井の段、井戸中の丸跡沼田川と本郷の町並み
 174 山口県 大内氏館・高嶺城

四国地方

 175 徳島県 勝瑞城・勝瑞城館 ※ 詳細は別ページ参照
        
Google Mapより史跡勝瑞城館跡三好氏歴代の墓続100名城スタンプ
 176 徳島県 一宮城 ※ 詳細は別ページ参照
                
一宮成佑の墓一宮城本丸本丸跡案内財蔵丸堀切スタンプ
 177 香川県 引田城
・城郭構造ー山城
・築城ー室町時代
・城主ー四宮氏、仙谷氏、生駒氏
・室町時代末期 寒川氏に属する四宮右近の居城になる。
・元亀元年(1570年) 三好氏に攻められ寒川氏は城を引き渡す。
・天正11年(1583年) 仙石秀久が入城。
・天正12年(1584年) 秀久は長宗我部軍に引田城で敗れるが、羽柴秀吉の四国平定後に再び秀久が入城。
・天正18年(1587年) 生駒親正が讃岐一国を得て入城するが、同年引田城が讃岐の東に偏っていたので聖通寺城に移る。
・元和元年(1615年) 一国一城令で廃城。
引田城遠景登城口の城案内板本丸石垣本丸案内行先案内
北二の丸石垣城山頂上からの遠景、鳴門、大坂峠を望むスタンプ
 178 愛媛県 能島城
 179 愛媛県 河後森城
 180 高知県 岡豊(おこう)城
・城郭構造ー
  連郭式山城
・築城年ー
  13世紀〜14世紀
・築城主ー長曾我部氏
・廃城年ー
  天正19年(1591年)
・指定文化財ー国の史跡
・鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。
・室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けて、
 その直轄領である土佐でも支配力を低下。
・それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、
 戦乱の時代の始まりとなった。
・七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
・国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。
 この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一。
・同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を
 移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠
 岡豊城は廃城となった。
岡豊山長宗我部元親岡豊城址長宗我部元親飛翔の碑高知県立歴史民俗資料館
                                         
岡豊城址全体案内図二の段二の段案内堀切と井戸案内堀切と井戸
詰下段礎石建物跡案内詰下段詰礎石建物跡三の段石積三の段礎石建物跡
詰の段案内土塁・石積案内虎口伝厩跡曲輪伝厩跡曲輪案内

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